LGBTPZNは何を破壊しているのか、あるいは「やってしまわないための連帯」の(不)可能性

宮沢賢治よだかの星という童話があります。

「よだかは、実にみにくい鳥です。」から始まるこの童話のあらすじを少し紹介させて下さい。*1

顔は味噌をつけたようなまだら、くちばしは平たく耳までさけて足はよぼよぼの「実にみにくい鳥」であるよだかは、鳥の仲間の面汚しと呼ばれて生きています。なかでも一層よだかを目の敵にしている鳥がいます。鷹です。よだかのような醜い鳥が同じ「鷹」の名前を持つことが我慢ならない鷹は、よだかの顔を見るたびに名前をあらためろと因縁をつけます。

「おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです。」
「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」

自分がいやになったよだかは空へ飛び出します。花の蜜を食べる蜂すずめや魚とりの名人のカワセミとは違って、夜だかは羽虫を食べて食らしています。それも、耳まで裂けた口を大きく開いて空を横切りながら、何匹も何匹も食べなければいけません。

 雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)

よだかは力尽きるまで空高く飛び上がったあと、さかさになっているのか、上を向いているのかもわからなくなりながら、命を落とします。

気がつくとよだかは星になっていました。ひとつの星になって、今でも青く燃えているそうです。

 

*

 

LGBTPZNという言葉がインターネットに登場してから長い時間が経ちました。

私たちの見た夢が少しでも実現に近づいたかどうか、私には分かりません。

wezz-y.com

牧村朝子氏がLGBTPZNについて論を発表したと聞いて驚きました。LGBTPZN運動において私が最も頭を悩ませていた(かつ、予想外だった)のは、ネット上でLGBTPZNが拡散する中で読者が思い思いになす解釈は、そもそもLGBT運動すら前提としていないものが多数だったことです。LGBTPZNがすべての性を尊重することの正当性を掲げているのは何よりもLGBTが旧世代の規範を少しずつ打ち崩してきたその論理によってであり、間違っても同じ変態だからだとかが理由ではないのですが、その元となったLGBTの歴史や議論を踏まえられていないがためにLGBTPZN自体を誤解してしまっているという事態は往々にして*2起こっていました*3。牧村朝子氏がLGBTに関する言論・執筆活動を活発に行っていることはよく知っていたので、その点で安心すると同時に、LGBTを切実に考えたその人にとってLGBTPZNがどのように映るのかについて期待に胸を膨らませました。

ひととおり拝読したところ、気になる点*4はあったものの、性的指向性的嗜好のあいだに人工的に設けられたヒエラルキーへの疑問という点では評価されていることに手応えを感じました。というのも、性的指向性的嗜好でのLGBTとPZNの分断というのはある程度LGBTの文脈を踏まえた人がLGBTPZNをとるにたらないものと見なすための常套句だったからです。この観点については非常に貴重な意見をいただけたと思います。

ただし結論部にあたる"全ての人が「やってしまわないための連帯」"という言葉が、どうしても気になりました。

私の結論を先に述べます。「やってしまわないための連帯」は可能である。だが、可能ではない。

 

*

 

さて、牧村氏の記事の中で「やってしまわないための連帯」が登場する経緯を追いましょう。(私のこの記事での議論は牧村氏の記事にその多くを負っているので、以下は一度牧村氏の記事に目を通してからご覧いただけると幸いです。)

全ての人には、性のあり方にかかわらず、
1.好きなものを好きでいる自由がある。ただし、性暴力は他者の自由の侵害である。
2.嫌いなものを嫌いでいる自由がある。ただし、侮辱・蔑視・攻撃は他者の自由の侵害である。

牧村氏の記事で三度にわたって繰り返されるこの一対の主張をここでは「自由と侵害の原則」と呼びましょう。LGBTPZN運動の発祥にかかわってはいないながら当事者としての切実さに満ちた先駆的な文章を発表し初期のLGBTPZN理論家たちを鼓舞した nexa 氏の言葉を借りれば、「各個人の信条が異なる以上、『自分の気に入らないこと』と、法的あるいは思潮としての不正義を先験的に同一視することは不可能」であること、「人間の想像力の中に留まるときは、あらゆる性的幻想は等しく尊い」こと。これらのことは人類の長い思想史の中で得られた尊ぶべき結論のひとつであることは確かです*5。他者に対する身勝手な暴力はもちろん法のもとで禁じられています。

さて、この原理を繰り返しつつ、テーマであるLGBTPZNの歴史を掘り返すのが牧村氏の記事の前半部でした。そしてそこから性暴力加害者の自助団体の紹介を経由して結論されるのが「やってしまわないための連帯」の可能性です。*6

牧村氏の記事ではなぜか具体名がひとつも挙げられていないのですが、確かに小児性愛者をどのように扱うかという問題について自己コントロールはいまホットな分野です。「道徳的な小児性愛者」運動をかかげるTodd Nickersonは積極的にメディア露出しているし、小児性愛の「治療」に取り組むドイツのセラピープログラムは話題を呼びました。

わたしは(たぶん)ペドファイル(と呼ばれるべき人)ですが、多くのペドファイルたちと同じように、多くの子どもが身勝手な性被害によって苦しめられていること、その傷の重さ、そして大人たちがあらゆる手を尽くしてそれを守ろうとしていることを知っています。これだけは明確に言います。私は、「やってしまわない」社会を望みます。

さて、私のやるべきことは、「やってしまわないための連帯」を作ることです。やってしまわないように、みんなで頑張りましょう。。…本当に?

自助団体というのはすぐれた仕組みです。性暴力だけでなく、アルコール、薬物、ギャンブル、各種の依存症、精神障害、がん患者。これらの自助団体が世界各地で一定の成果を挙げていることは疑うべくもありません。*7

なかでも「やってしまわない」性の強い依存症の自助団体を例にとって考えてみましょう。これらが現在依存症治療の友好な手段のひとつとしてみなされているのは、あくまでもセラピーのやり方のひとつとしてであり、依存症脱却のための最良の方法とみなされているというのは聞いたことがありません *8。否、それどころか、それは不可能です。なぜなら、"自助"が完全に機能するならば、それはもはや自助ではなくなるからです。私たちは「やりたくないのにやってしまう」例をいくらでも知っているはずです。薬物、殺人、自傷、どんなに抑止力を持ち出しても「やってしまう」人が存在するのはなぜだか考えたことがありますか。力で抑えつけてすべてを済ませるには人の意志はあまりにも厄介すぎるからです。

残念ながら特殊な境遇に立たされた君たちが正常な私たちの連帯をそのまま真似るのは無理だから、君らの連帯は自分たちを縛る連帯になっちゃうけど仕方ないね、と。こんなバカな話はないです。それは連帯とは名ばかりの都合の良い押し付けです。そんな選択肢は拒否します。特殊な境遇を引き当ててしまって残念だったね、で済むのは他人事だからでしょう。LGBTの歴史の中で、マジョリティの側がコンバージョンセラピーの名のもとに行っていた「治療」がどんなに屈辱的なものだったかをあなたは知っているはずです。PZNは、たまたまそれが社会的に正しくないというだけで、自身のアイデンティティを差し出さなくてはならない*9

もしあなたがすべてのアルコール依存症患者が自助団体によって救われると本当に思うなら、人間の意志と尊厳とを軽く見すぎです。やってほしくない。やりたくない。やってしまわないための連帯をしよう。おしまい。こうはなりません。なるはずがないのです。それはまぎれもなく他者に対する想像の放棄です。

「やってしまわないための連帯」が無意味だとは言いません。むしろ多くのそれを必要としている人の葛藤を癒すでしょう。自助団体は監獄ではありません。ただ、当事者たちの問題は当事者の自助に任せてしまえばいいのだという想像力は、監獄を産みます

 

もう一つ大事なことを言わせてください。そもそも、「やってしまう」ということを誰が決めているのか、ということについてです。

ここで安易に極端な相対主義を持ち出すつもりはありません。多くの"穏健な"人々と同様、私はこの時代のこの社会が決めた規則に従うことの価値を知っています。しかし歴史の経緯として、同性愛や性の境界侵犯がかつては秩序や風紀の美名のもとに「やってはいけない」ことになっていたことは事実です。ひどい話だと思います。そして、それが「やっていい」事になったのは規範よりも個人に価値が置かれるようになったこと、何よりも幾多の運動家たちが訴えた「正当性」が社会を少しずつ変えてきたことのおかげであるのもまた事実です。

もう一度言います。私は、「やってしまわない」社会を望みます。そして、現代という時代とこの社会が持つ「自由と侵害の原則」を尊重しています。法律*10を理解しています。それらのことを確信しています。だけど、児童と成人との間の恋愛は絶対的に不平等なのでしょうか?殺したり食べたり好き勝手にしている動物を、なぜ性的な目的で扱うことがタブーなのでしょうか?死体を犯したとき誰の何が損なわれるんですか?近親相姦はなぜ忌避されなければならないんですか?あるいは児童と成人のプラトニックな恋愛を社会は許していいのでしょうか?すべて人間は何度目かの誕生日を過ぎた途端に「同意」の能力が備わるんですか?

誰か答えてください。

 

*

 

LGBTPZNには言葉としてのLGBTPZNと、運動としてのLGBTPZNがあると、私は思います。
私にとってLGBTPZNが重要であるのはほかでもない運動としてのLGBTPZN、炎上・悪意・諧謔・夢想・破滅のなかでうねる運動としてのLGBTPZNであり、言葉としてのLGBTPZNはその殻、オモチャに過ぎません。

言葉としてのLGBTPZNは、白昼の中にあらわに晒された表面としてのLGBTPZNです。自由と平等と博愛を謳っています。牧村氏の言うように、あるいはnexa氏の言うように。
言葉としてのLGBTPZNは、たしかに「全ての性的ありようは虹のスペクトラムのように切れ目なく繋がっているものであり、我々は性的ありようによらずお互いを平等な一人の人間として尊重しなければ」*11ならないと、LGBTとPZNの壁、正常と異常の壁を取り払うものでした。とはいえ、これは正直言って行為と内心の区別さえついていればLGBTからのごく自然な結論として受けいれられる程度の破壊に過ぎません。

匿名のVIPPERがLGBTPZNを「闇の深い概念wwwwwwwww」*12と囃し立てたことには学ぶべきものがあります。運動としてのLGBTPZNの本質は闇の中にあります。そしてその仕事はもっと見えづらい部分で行われる、もっと根本的な破壊です。

LGBTPZNは、「LGBT」から「はみ出たものを見る」ための手掛かりなのでした。ここで「はみ出たものを見る」という言葉には二つの異なったレベルの意味を持つのです。ひとつめは、先に述べたように、性的指向という正しさから除外されたセクシャリティを包摂すること。そしてもうひとつは、どんなに「正しさ」をつきつめても絶対に正しくなることができないものへのまなざしを投げかけ続けることです。*13

法と倫理によって徹底的に自分自身を破壊された者が、なおも何らかの倫理や価値観に対して誠実であることは可能だろうか?

LGBTPZNは遊戯的であるべきだが、遊戯ではない – 墓場人夜

人は罪も後ろ暗さも持ち合わせています。正しさの光からはみ出した闇、そこから完全に逃れられる人間は本当は誰もいないはずです。正しさと正しくなさの境界をはっきりさせるだけがすべてではない。LGBTPZNは正常と異常とのあいだに設けられたある一つの区切りを破壊するだけではないのです*14正常と異常を区別することで安心し何も見えなくなってしまう私たちのどうしようもない性向。その枠組みそのものを破壊するための方法です。

LGBTPZNの運動は、悪意と不可分である。だが悪意を否定的ニュアンスだけで考える必要はないだろう。われわれの日常の感覚、インターネットを使用する感覚では、悪意をもって議論に加わること、場を乱すこと、炎上を起こすことはやってはならないことだった。しかしこの感覚は、「正常な」倫理、常識、社会通念の巧妙な策略でもある。われわれの日常の倫理を飛び超えるとき、硬直した規範を問い直すとき、正常さは、それを「悪意」と名付け、そんなことをすれば炎上するぞと脅しをかけるのである。

LGBTPZNの現在地 - 自然法被害者の会

"倫理ハック"という概念があります。
「世の中は矛盾の塊」という俗な言葉であらわされるとおり、私たちは私たちの規範である倫理が本当は曖昧で矛盾していることを肌で知っています。矛盾やパラドックスは存在しているのに"見えていない"からこそ問題になります。そして、それを"見える"ようにするための有効な手段は、それをやってみせることです。やってみせたことは、それを理解することができる者には強力なメッセージ、あるいは問いになります。運動としてのLGBTPZNがねらうのは、まさにそれをきっかけに"見える"ようにすることです。


私たちは、あまりにも無関心で何も知りません。あなたが平穏に生活する一方で想像を絶する貧困にあえぐ人がどこかよそにいることも、あなたのポジティブなメッセージが見えない誰かを疎外していることも。それはどうしようもないことです。どうしようもないけれど、あなたが望むなら少しでも想像すること、見ようとすることはできる。無関心はあらゆるマイノリテイの敵です。LGBTは誰よりも一般社会とは異なった「くくられた」グループとして理解を済まされることの厄介さをよく知っているはずです。

だから、LGBTPZNはLGBTPZNの (あるいはPZNの) 権利運動にはなり得ない。そのようなものを夢想したり、あるいは、そのようなものに擬態したりしながら、それの周りで歌ったり踊ったりしている。これは熱狂的な死の舞踏である。

LGBTPZNは遊戯的であるべきだが、遊戯ではない – 墓場人夜

論文なし、報道なし、商業出版物なし、建設的な議論もあまり見られない。それはそうです。LGBTPZNは死の舞踏だからです。倫理によって自己を破壊され、それでも自己を捨てることのできない破綻した者は踊るしかないのです。踊ることにあえて意味をつけるなら、それは闇の中でも"見える"ようにするための技術です。

いいですか、繰り返します。もし「やってしまう」ことの問題が「やってしまわないようにしてもらう」ことで全部解決すると大真面目に語っているなら、それはとんでもなく人をバカにした、大雑把で、滑稽なことです。

PもZも(Nも?) *15 自身の性的欲求を満たそうとすれば必然的に他者を損なってしまいます。かつては、そして今現在でさえ自身の同性愛の「異常」性に悩む人も大勢いるはずです。自分が自分であるだけで誰かを傷つけてしまうことや疎外されてしまうこと。どうしようもないのです。自分も他者も、究極的には変えることができない。私のよく知るLGBTPZNのフォロワーたちはその苦しみと葛藤を背負っています。あなたに見えているような「やらせろ」しか言えないような単純化された存在はどこにも存在しません。人は複雑です。可能を夢見ながらも、同時に絶対的に不可能であるものも見えています。LGBTPZNはその限りなくどうしようもない矛盾の中で生まれてきたものでした。

 

*

 

まとめましょう。

全ての人には、性のあり方にかかわらず、
1.好きなものを好きでいる自由がある。ただし、性暴力は他者の自由の侵害である。
2.嫌いなものを嫌いでいる自由がある。ただし、侮辱・蔑視・攻撃は他者の自由の侵害である。

 本人の性のあり方にかかわらず、何を思っても自由。ただし、合意なく他者を巻き込むことはその人の自由の侵害である……LGBTがどうの、PZNがどうのではなく、実はそんなシンプルな話なのではないでしょうか。

その通り。だけど、私たちの性が、自由が、倫理がそんなにシンプルなら、どうして私たちは苦しむのでしょうか。

「やってしまわないための連帯」の可能性は夢物語、あるいはあけすけな権力装置の化身なのでした。「やってしまう」「やってしまわない」の審判には必ず矛盾と時代の限界がつきまとうのでした。
法あるいは原則はとてもシンプルです。だけど、性は、人は、他者は、私は、社会がどんなに進歩しようともどうしようもないくらい複雑です。

複雑すぎる他者と、どうにもならない自分とに向き合うために必要なのは、正しさでも優しさでも寛容でもありません。全てを救うことはできないのだから。

疲れている暇はないのです。星になれない私たちは、踊り続けるしかないのだから。

 


 

私に書くための勇気をくれた Judith Butler, Michel Foucault@Go_8yo, nexa, 墓場人夜, 野間みみか そしてフォロワー諸氏に深く感謝します。

 

 

*1:もしお時間があればぜひ青空文庫で全文を読んでいただきたいです。10分くらいで読めます。

*2:http://hosyusokuhou.jp/archives/48814726.html

*3:このことはLGBTPZNがLGBTと敵対ではなく連帯するべきだという有力な理由のひとつです。

*4:LGBTPZNは一人一派と言いますが、2016年末の時点の私のブログでLGBTPZNが「PZNの権利向上」や「LGBTをおとしめること」をねらったものでないことは明言しています。また、複数のLGBTPZN理論家の個人ブログのどこを読んでもそんな主張は出てこないはずです。

*5:もちろん、nexa氏の言うとおり時代・社会・文化を超越した普遍的正義はありません。しかし、現代の日本における法制度はこのような思想のもとに敷かれていることは確かです。

*6:私にはこの結論への移行がいささか唐突に思えました。結局「自由と侵害の原則」の「侵害」の部分とPZNの交差という一般的な話に浮上するなら、LGBTPZNの悪事の歴史を精査するよりも各国の法事情や道徳観、あるいは当事者のケーススタディを踏まえてPZNが何を侵害しているかについてまとめた文章を発表すればよかったのではないでしょうか。

*7:私は詳しくないのですが、「やってしまわない」ための連帯として日本国内では SCAとは何か? - SCA-JAPAN 無名の性的強迫症者の集まり の活動があるようです。

*8:https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/alcohol/a-05-006.html

*9:念のため、性的な行為の加害性を矮小化する意図はまったくありません。ただ、当事者の人格にとって「正しさ」というのは屈辱をやわらげるために何の役にも立たないということです。

*10:なぜか蔑ろにされがちなことですが、獣姦と屍姦を禁止する法律は日本には存在しないはずです。なぜか蔑ろにされがちなのでここに書いておきます。

*11:http://necrolife.blog.fc2.com/blog-entry-67.html

*12:http://hattatu-matome.ldblog.jp/archives/50846237.html

*13:そういう意味で、LGBTPZNがLGBTの拡張概念だとする理解は誤りであるとも言えます。

*14:LGBTPZN語で「線引きを"ずらした"だけ」と表現される事態です。

*15:何も損なうことのない政治的に正しい成人同士の性行為が存在することになっているのは慣習に過ぎないと私は考えていますが、これについては今のところ語る口を持たないので曖昧にしていることをお許し下さい。

GNU Social の思い出

この記事は 分散SNSフォーラム - connpass 応援記事です


タイトルは若干誇張であってここではGNU SocialインスタンスのひとつであるFreezePeachにアカウントを開設してからの半年間にあったことを私的な観点から記録します。GNU SocialというのはMastodonより古いいわゆる分散SNSの実装のひとつで、Mastodon等の別の分散SNS実装と一定の互換性があり相互通信が可能です。今回取り扱うFreezePeachは、ほぼ唯一日本人コミュニティが存在しているGNU Socialインスタンスです。*1

FreezePeach と #twexit

私がFreezePeachにアカウントを作成したのは日本でMastodonが話題になるよりかなり前になる2017年1月2日で、ことの発端は女性器に擬態している生物 (現@hakabahitoyo) が思いつきで始めた #twexit という脱Twitter運動でした。本人曰くTwitterの代替としてFreezePeachを選んだことに必然的な理由はなかったそうですが、ともかくこれに影響された何人かのTwitterアカウントがFreezePeachにアカウントを開設しました。といっても多くの人にとってTwitterから脱却する強烈な理由があったというよりは、退屈しのぎにアカウントを作ったらだんだんとムーブメントとして盛り上がってきたこと、それに原住民との交流が活発だったことの目新しさなどから興味を惹かれたという感じだったでしょうか。

f:id:okimochi-philia:20170630001145p:plain
https://freezepeach.xyz/

アメリカに存在するインスタンス、FreezePeachはその名 (Free-Speech) のとおり「言論の自由」を大々的に掲げたインスタンスのひとつです。その利用規約はシンプルを極め、児童ポルノ投稿はBAN対象であること、それ以外の言論については自己責任、と念押しされているのみです。

As for rules:

1. Don't post child porn. This is a bannable offense. And we're obligated by law to report you to the appropriate branch of law enforcement.

That's... that's pretty much it. Mind the laws in your own country on what you can get in trouble for discussing, but that responsibility is solely your own.
(FreezePeach ToS より引用)

Twitterにはルールがたくさん定められています。著作権侵害、露骨に性的なコンテンツ、嫌がらせ、非合法な目的での利用……。Twitter社のこのルールの運用が非常に悪名高いことはみなさんもよくご存知だと思われますが、とにかくFreezePeachではできるだけBANの無いサービスを目指す代わりに、ブロックや「sandboxing (いわゆるミュート)」の積極的な利用を推奨し、「嫌なら見るな」というある意味で非常にハッカー精神的なサービス運営方針をとっています。

#twexit 以前のFreezePeachは、元々はGamer Gateという一大論争を発端に、いわゆる Social Justice Warrior (日本のTwitterでいうツイレディやポリコレ棒) から逃れて話ができる場として作られたようです*2。やがて小規模なコミュニティを形成するに至った住民は日常の些細な出来事やニュースや趣味について語るといった至ってTwitterと同じような場としてFreezePeachを利用してきました。アカウント同士の距離感がかなり近いので頻繁にリプライがとび交い、実際Twitterの常識で使っているとクソリプそのものとしか言いようがないユーザー体験を強いられることになるのですが、このあたりの感覚はインスタンスの仕様や規約といったハード面とは別に形成されるもので興味深いです。#twexit 以前に一度日本のTwitter文化圏のユーザーが入植し日本人街を形成されていたことにはいたらしいのですが、その後文化が定着せずに消滅し、Twitterの投稿をFreezePeachにミラーする仕組みを使っている人による自動投稿が延々とタイムラインに流される廃墟と化していたところに女性器に擬態している植物が目をつけたという経緯のようです。

ともあれ #twexit から数日の間、各人思い思いに好きなことを書き込み続け、public timeline (インスタンス内の投稿が全て流れるタイムライン) はマルチバイト文字で圧倒されていきました。

f:id:okimochi-philia:20170630001445p:plain
(1月3日3:02時点でのトレンドの様子。GNU Socialのハッシュタグは日本語が全部アルファベットになる*3のですが、よく見ると全部日本のTwitterの文脈)

そうこうしているうちに案の定というか、女児の画像を投稿したアカウントが通報を受けて凍結されます。この直後サイトトップに常に「子供のエッチな画像投稿禁止」旨の警告文が表示されるようになり体感治安がメチャ悪化しました。

f:id:okimochi-philia:20170630001532p:plain

この削除要因が裸の女児が泥だらけになって遊んでいる姿態(局部の露出なし)の画像や水着で海で遊んでいるただのホームビデオのリンクというTwitterならスルーされる程度の内容だったせいでTwitterより不自由じゃないかと多少物議を醸したのですが、結局あえてルールに抵抗する理由もなくそれ以降はごくマイルドな画像・動画がシェアされる良好な状態が維持されて警告文の表示も無くなりました。そういえばPawooでも無修正3次(某有名ゲイビデオ)が流れたと風の噂に聞きましたがどうなったんでしょうか。

こうして振り返ると一連の騒動がFreezePeachとしては迷惑としか言いようがないものだったことに愕然とさせられるのですが、実際タイムラインを汚すなと言う人も何人かいた一方歓迎する人もいて、全体として排他性を感じることはなかったと思います。あまりに良い人達なので最初は新しい遊び場くらいにしか思っていなかった私もだんだん愛着が沸いてきました。ともかくルールを守る限りでは書く内容についてはあくまで不可侵という認識は全員に共有されているようで文章の内容に関して不快な攻撃を受けることはほとんどありませんでした。だからといって英語で女児による前立腺マッサージについて英語で記述すると「ここではあなたにはその投稿をする自由がある」というリプライが飛んでくるのはかなり嫌な体験でしたが。

MastodonGNU Social

MastodonGNU Social文化の関係についても触れておきます。いま一度念を押しますが、この記事で触れるGNU Social文化とはFreezePeach, Sealion Club, Shitposter Club, GNU/Smug 等の互いに関連しあったGNU Socialインスタンスが構成する一定の文化圏を指し、必ずしも全てのGNU Socialインスタンスに当てはまるかどうかについては私の知るに及ぶところではないことをお断りしておきます (例えばリチャード・ストールマンのいるGNUsocial.noにはあてはまらないと思う)。

さて単刀直入に言うと、FreezePeachはmastodon.social (mastodon開発者の運営するインスタンスです) にインスタンスごとブロックされています。いろいろと経緯*4はあるようなのですが、不謹慎ユダヤネタにマジレスした人が晒されてHentai画像が大量に送りつけられるという事件があり、関連した治安の悪い文化圏のインスタンスがまとめて目をつけられたというどこかで見たような事情のようです。

今更になりますが、FreezePeachやその周辺のインスタンスのユーザーはしばしば自分たちの居場所をゲットーと呼ぶなど悪質な言動を文化にしているところがあります。Mastodonとしてはそのような文化を快く思わず、一方のGNU Social側もMastodonを気に食わないやつだと思っているようです。

The GNUsocial Axis Resolutions (日本語) ではかなりはっきりとMastodonに対する反感が表明されていますが、MastodonTwitterという一企業の支配からの脱却による自由という面を重視している一方で言論に関してはキレイで有意義な場を作ることを指向しています。Mastodon.socialのことは詳しく知らないのですが、capitalismとかfascismとかの単語がけっこう飛び交っている印象があります。

GNU Social側は元々治安が悪いうえにMastodonを目の敵にしていてPawooが可愛いくらいにやりたい放題やっています。shitposter.clubという不謹慎インスタンスMastodon開発者の偽アカウントが存在するのですが、Pawoo鎖国騒動に乗じて暴言を吐いていた当時にはなりすましに気づかず困惑していた日本のユーザーがかなりいた覚えがあります。

f:id:okimochi-philia:20170630025455p:plain
f:id:okimochi-philia:20170630025452p:plain

この件ではmastdn.jpのnullkalが既存の推奨ブロックリストに追従する形でshitposter.clubを安易にブロックしようとしたのをGNU Social側の説得により撤回するという一幕もありました*5。shitposter.clubはそもそもユーザー全員のアイコンがEugenに変わったりかなりムチャクチャをやっているのですが、他にもsealion.clubでは"Mastodon"と書くと"the pile of Ruby shit"に置き換わるなどいろいろあるようです。ひどい。

まとめ; 分散SNSのこれからについて

さて、日本のTwitterMastodonが流行った一時の熱も収まり、各地で、Twitterとは少し違う居場所としてコミュニティが形成されているのではないでしょうか。

これは一例です

例に漏れずFreezePeachもそんな具合で、LGBTPZN関連の話題、あるいは分散ネットワークについての技術的な話題、その他の話題についてもぼちぼち話す場所になっています。また、TwitterのURLを引用しても相手に通知が行かないために気兼ねなく特定のツイートに言及できるのは非常に便利でした。私の場合、FreezePeachのアカウントのフォロワーはTwitterのフォロワーの部分集合なのであえて拡散力の低いほうを使う理由はないはずなのですが、前述した特定の話題を扱うときはもちろんのこと鍵垢にするほどでもないツイートを書き込むときにも使えると思っています。おそらくTwitterからはみ出して他の非主流SNSにまたがったユーザー全般がそう感じるのではないかと思うのですが、なんとなく、独特の内輪の雰囲気があります。ただ、雰囲気でクローズドとはいえ実際にはパブリックなので、いつか痛い目を見るかもしれません。特にMastodonが普及してからは連合タイムライン経由で投稿が漏れるのであまり意味がなくなったかも。たまにペドフィリア云々という投稿で知らないマストドンアカウントから通知が来ることがありヒヤッとさせられます。

FreezePeachを使っていてひとつ心残りだったのは、結局以前からのユーザーとの間には壁が存在したことです。初期こそこちらの日本語投稿をGoogle翻訳を駆使してリプライを送ってくるということが頻繁にあったけど、徐々に無くなっていったのは勿体無く思います。まあLGBTPZNという概念や「ラジ」という語尾の輸出という一定の成果はありました。

FreezePeachの大きなテーマだった言論の自由についても書いておきます。理論的には、各自が自身の責任の下で情報を発信するインフラを所有することが無制限な言論の自由を産むはずです。旧来のメディアに対してインターネットはそうした可能性を秘めています。幸いにして言論の自由が保証されている国に住み、一定の意味において確立した自由なソフトウェア流通を享受している私たちは、その限りにおいてどんな情報でも発信できるはずです。しかし拡散力という面では一からの発信は困難を極めるためにSNS等の確立されたインフラに乗る必要がありますし、たとえ自由なソフトウェアによってその問題から解放されたとしてもソフトやハードを自前で整えるほどの技術力が誰にでも備わるということは考えにくく、ましてや定期的なアップデートや悪意のある攻撃への対応になると適応できる人はかなり限られてくるでしょう。

そもそも私達は本来、自由なはずです。ところがTwitterを利用すればTwitterという企業の気紛れに、実生活では家族や学校や会社や自治体や国に左右されてしまいます。これは「権利を得たいなら義務に従え」式の疑似規則ではなく、いわば交渉の領域に存在する問題です。私たちは常に他者を利用し、同時に利用されて生活しています。ただ、何を利用するかどうかは選ぶことができるし、他者を変えることもまた可能な選択肢のひとつです。

インターネットの言論は、それが多数の人間に関わる、つまり政治的な事柄である以上ひとつの完璧な正解といったものはありません。#twexit を機にFreezePeachにアカウントを作った人たちは現在FreezePeach以外の場所を求めていくつかの自前のGNU Socialインスタンスを運営しています。

Pawooへの移行運動のとき、私は少なくとも自由さにおいて上回るはずのFreezePeachが以前からあったことを差し置いてPawooが救世主のように語られる様子を歯がゆく感じながら見ていました。FreezePeachは二次絵でBANしないだけTwitterよりも確実に良いです。無修正でもOKなだけPawooよりもさらに良いです (もちろん猥褻物頒布にはあたるわけですけど、もし確信犯的にそうしたいという意図がある場合に力になる場はたくさんあるし、なんならTorだってあるということはとても意味のあることでしょう)。結局PawooとTwitter二重投稿する文化ができつつあるのはとても良いことでした。TwitterにもPawooにもFreezePeachにもそれぞれ利点と欠点がありますが、その存在を知らなかったりそもそも存在しなければ使うことすらできないでしょう。私たちは選ぶことも変えることもできます。もしあなたが何か不満を持っているなら、それを少しだけマシにする方法は案外手を伸ばせば届くものかもしれません。

_

日本マストドン史が今後編まれると思うけど、この記事を機に先史としてGNU Socialをねじ込む風潮を作っていきたい。これを読んでいるマストドン史編纂者は事前にFreezePeach住民に一声かけること。

*1:分散SNSなんだからインスタンスに存在するコミュニティに意味はないという意見はある意味正しいけど、現実的には同じインスタンスであるということにはかなりの意味がある。インスタンス内の投稿をまとめて閲覧できるTLが存在すること、そして自分がどのインスタンスにアカウントを作成するかという決め手になる要因は結局そのインスタンスの文化や既存アカウント群にしかないため

*2: これは正確には sealion.club というインスタンスの話で、FreezePeachはその派生インスタンスらしい

*3:ラテン文字ICU音訳器でむりやりラテン文字に正規化 (transliterator_transliterate) するクソアホ仕様である

*4:https://freezepeach.xyz/notice/2080604

*5:でも分散SNSにおいて悪質インスタンスぐるみでニセアカウントを作られた場合、インスタンスをブロックするか泣き寝入りするか法的手段をとるかの三択しかなさそうなのでEugenがかわいそうに思えてきた

Encouragement of Pedophile Pride

You may be surprised to learn that there has been a remarkable number of pedophile organizations in serveral countries. List of pedophile and pederast advocacy organizations - Wikipedia

I regret this list does not include Japanese one, although Japanese society is so closely related to problems with pedophilia as the other countries in the list. It is commonly said that pedophilia is much more common in Japan since law in Japan was uneager to ban child pornography for a long while. However, the recent pedophile social theories attribute the apparent generosity with pedophilia to lolisocial (lolicon-social, the lolicon version of homosocial, characterized by the patriachal attitude toward female youthfulness, and pedophilophobia) to find out it is a hidden menace to pedophiles.

So I would like to take initiative to promote the P-Pride (Pedophile Pride) movement from Japan, proposing the P-Pride flag.
f:id:okimochi-philia:20161218225424p:plain
The sequence of colors in this flag derives from Ichigo Mashimaro (苺ましまろ), a Japanese manga by Barasi (ばらスィー), who is the most meritorious pedophile in Japan. The serialization of Ichigo Mashimaro began in 2002 and has already published seven volumes so far. Each volume has a unique color in the Ichigo Mashimaro title logo, like volume 1 red, volume 2 azure and so on. I arranged these seven colors in publication order and designed "P-Rainbow". This flag is licensed under CC0 and you are completely free to use this flag for your actions any day now. I sincerely hope 2017 will be a year of P-Pride.

苺ましまろ 1 (電撃コミックス)

苺ましまろ 1 (電撃コミックス)

柚子森さん 1 (ビッグコミックススペシャル)

柚子森さん 1 (ビッグコミックススペシャル)



This article participates in LGBTPZN Advent Calendar 2016 - Adventar. Write, Act and Please Join Us! We are Rainbow Brothers!

LGBTPZNの現在地

LGBTPZNは、かつては、7種類の多様な性――レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリア――のアクロニムでした。現在は、LGBTPZNはアクロニムではなく、多様な性を象徴するシンボルであると考えられています。

http://LGBTPZN.org/

LGBTPZNという概念/運動が、主に日本のTwitterを中心に普及をはじめてからおおよそ2ヶ月がたつ。
非常に短い期間ながら、ペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーアセクシャルパンセクシャルフェミニスト、等々さまざまなバックグラウンドをもつ人々の間を飛び交い、賛同、嫌悪、疑念、議論、誤解を巻き起こしてきた。
とくにこの数日間、LGBTPZNの議論は第二の波とも言うべき大規模な拡大をみせ、ごく小規模なコミュニティで形成されてきた運動が急速に変容しつつある。その中であらためて、LGBTPZNとはなにかという問いが必要とされているように思う。

LGBTにPZNを付加したLGBTPZNという語の本当の意味での起源はあまり定かではなく、日本のウェブ上に登場する以前にも、ポーランド語や英語のウェブサイトにおいて使用されたケースがいくつか確認されている。いずれにおいてもごく断片的な痕跡しか残っていないが、LGBTを茶化したその場限りの冗談として使われている様子で、とりわけポーランドにおいては過激で保守的なクリスチャンによる反LGBTの文脈で、LGBTをおとしめるための単純な罵倒語として用いられていた。

日本におけるLGBTPZNは、インターネットにおいてしばしば喧々たる議論を招く過剰なペドフィリア嫌悪問題圏の中で、ひとまずは形成されていった。それ以前にもごく小数の人間が散発的に使用していた言葉ではあったが、9月下旬に「ロリコンは存在だけで犯罪なのか?」という議論が大きな話題を呼んだこともあり、小児性愛者やポリティカルコレクトネスに関心の高い層の間で一躍「新しい概念」として話題にのぼるようになっていった。
その後、キャッチーな概念であることからTwitterでの拡散戦略は功を奏し、セクシャリティや人権運動に関心の低い層にもしだいに認知されるようになった。現在ではPに留まらずZやN、LGBTの当事者さえもTwitter上で運動に加わっている。

本論は、この2ヶ月間にLGBTPZNをとりまいて発生した言説を分析し、LGBTPZNの現在地を探ることを目的とする。運動以前の基本的な事項、PZNそれ自体は犯罪ではなく尊重されるべきであるということについては、nexa氏の記事が参考になるので、そちらを参照していただきたい。
屍姦生活に必要なモノ ネクロフィリアと性的多様性と人権について

LGBTPZNはどのようにとらえられてきたのか?

LGBTPZNが周知されていく過程で、支持派であれ反対派であれ、その受容形態は面白いほど多様だった。まずは、そのそれぞれを分析することから始めよう。

キリがない

LGBTPZNへの反応の中で当初から多かったのは、LGBTにPZNをつけくわえたことで本質的な問題は消えていない、つけ加えではキリがないという指摘だった。たとえばアセクシャルパンセクシャルをはじめ、LGBTの規範から漏れた存在、無視されてきた性的マイノリティを掬い取るべきだという指摘は、従来のマイノリティ運動の中でも盛んに行われてきた。その知見のもと、あえてLGBTにPZNを加えただけの概念に何の意味があるのかという疑問が生じる。

LGBTでは捉えきれないものがあるというアイディアには、たとえば90年代に形成されたクィア理論があり、LGBTという固定的なジェンダーカテゴリーに留まらずあらゆるセクシャリティを扱うという点で、LGBTPZNを包括するものに思える。異論はあるものの、確かにクィアはPZNをもその射程に入れるものであり、理論・運動としてもLGBTPZNよりずっと歴史があり、精緻だ。
しかし、LGBTPZNが問いかけるものは、クィアによって完全に置き換えられるだろうか。そのとき損われるものは、ペド、ズー、ネクロという、特に反社会的、変態的、異常性癖とされるセクシャリティを、あえてLGBTと結合することの意味である。

LGBTPZN運動が形成されていく過程で頻出した「悪意」という言葉。少なくとも歴史的にLGBTPZNを語るうえで、この言葉を欠かすことはできない。しかしこの「悪意」は決して、害を為すことや、否定的なニュアンスと安易に結びつけられてはならない。クィアの起源が「変態」という語を肯定的に捉えなおすことであったこと、そしてその運動がファッションとして消費され本来の理念が失われていく危機感と常に隣り合わせであったことは、LGBTPZNの「悪意」を読みとくうえで示唆的である。LGBTPZNという七文字の連なりが与える、感触としての「破壊力」。これはLGBTPZNにとって副次的なものとして位置づけられない。むしろ、それを駆動するエネルギーであると同時に、この感触はむきだしになった倫理の感触であり、LGBTPZNでなければ問うことのできない固有の問題の根幹にかかわるものである。

LGBTPZNはクィアに単純に包括される概念でもなければ、対立するものでもない。ただ、その七文字の連なりが問う固有の問題とともにあるのである。LGBTPZNが扱う固有の問題とは何か?このことは、LGBTPZNへの反応を総覧したあと、改めて考察する。

PZNの権利向上

基本的には、LGBTPZNはペドフィリア・ズーフィリア・ネクロフィリアの権利を向上させるための政治運動として理解されることが多い。

地位の獲得を目論むPZN当事者たちによる権利運動とされることも、またPZN当事者からは「良心的な」人間が無責任に考えた大きなお世話として敬遠されることもあった。日頃から児童に対する性犯罪を問題視している活動家からは、犯罪者がLGBTの立場に居座ることでその加害性を隠蔽しようとする活動だと捉えられ、激しい非難を受けることもあった。

LGBTPZNの主意がペドフィリア・ズーフィリア・ネクロフィリアの権利の向上であるというのは、上掲のLGBTPZN.orgでそのような理念が謳われているとおり、事実である。だがここでも、前述の「悪意」がごっそりと抜け落ちている。

LGBTPZNの「悪意」は、そのような「権利向上」運動というカテゴリのいずれをもすり抜ける。LGBTPZNは、PZNはLGBTと同じだから仲間に入れるべきだという単純な思いつきに基づく運動ではない。むしろ、われわれの議論の場を「悪意」によって問いなおすことである。これも、既に言及した「LGBTPZNが扱う固有の問題」に関わってくるので、詳しくは後に検討する。

悪質な釣り

LGBTPZNがしだいに人口に膾炙していったころ、LGBTPZNの主張内容に賛同する人々に対し、LGBTPZNは実体のない運動、悪質な釣りであるから真に受けてはいけないと啓蒙する活動がみられるようになった。
ここには「悪意」について上の二者とは裏返しの誤解があるように思える。
まず、LGBTPZN.org はLGBT団体サイトのパロディだし、LGBTPZNがクィアのようにジェンダースタディーや運動の中から生じてきたものではないことは確かである。
また悪質性についても、既存のLGBTにあえて異様なものをぶつけ、混乱させることは、すでにLGBTの運動に関わる人の立場からすれば茶化されているようにしか思えないだろう。

だがしかし、いま一度足を地に降ろし、周りを見渡してほしい。
LGBTPZNは反社会的なセクシャリティ自体が犯罪であるかという逼迫した問題とともに歩んできた。LGBTPZNは「悪意」に満ちており、少くとも表面上は偽物の運動であるが、しかしだからこそ意味を持ってきた。なにより、現実に存在するマイノリティへの差別に目を向けることを、LGBTPZNは強く迫る。
「悪質な釣り」として、現実に存在する問題とともにこれを一蹴することは、ひどく偏狭な態度に思える。語る内容がどのようであるか以前に、何のために語るのかを見失うべきではないはずだ。

本物の中立性

LGBTは一部の性癖だけを特権階級化する差別的な運動であり、LGBTPZNの方が政治的に中立性の高い適切な概念であるとして、LGBTPZNをLGBTの欺瞞を暴く概念だと捉えるもの。
この論は、「LGBTはひっこんでろ」という主張とともに、某大手ツイッターユーザーによって拡散され、「第二の波」における最も大きな出来事として位置付けられている。*1

「配慮」する対象がLGBTは不十分であると、LGBTPZNは主張する。だが、歴史を紐解けば明らかであるように、LGBTは放置されていた差別構造を明らかにし、差別と戦い、その都度内外から発生するさまざまな問題と向き合い、マイノリティを救ってきた。LGBTPZNはこのことに多大な敬意を払うし、だからこそLGBTPZNを名乗る。一面的な基準で両者を比較して劣っているものをすべて否定すること。現実に存在する問題どころか、LGBTの歴史にすら目を向けようとしないこの態度は、明らかに差別を解消する方向ではなく、差別を生み出す方向に動くものである。それはむしろ、ポーランド人の用法、LGBTをおとしめるためにPZNを同列に扱うことと、何ら変わりはない。
LGBTPZNへの一面的な理解を糾弾するLGBTPZNは、LGBTへの一面的な理解も糾弾する。

いったい、LGBTPZNをどのようにとらえればよいのだろうか?

ここまで総覧してきたLGBTPZNへの理解は、いずれもある意味では正しいが、ある意味では不適切だった。一体何が悪かったのだろうか?

既存のカテゴリのいずれかに放り込むことによってLGBTPZNを規定すること――「まともな」権利運動だったり、無責任な与太だったり、釣りだったり、LGBTへの攻撃だったり――では、LGBTPZNが本当に問うものから目が逸れてしまう。LGBTの四文字にPZNの三文字を結合するということ自体が発する問い、それらの総体こそがLGBTPZNである。
LGBTにペド、ズー、ネクロの3つ――これらはとくに創作において比較的馴染深いモチーフでありながら、現実に存在するその当事者は差別を受け、それどころか実在し、性的な悩みを抱えているということすらも認識されていない傾向にある――を結合するとき、何が起きているのか?

LGBTPZNの「悪意」は、撹乱する悪意である。LGBTPZNは正常/異常を規定してきた倫理、常識、社会通念を、露悪的に撹乱する。ここにおいて、ペドフィリア・ズーフィリア・ネクロフィリアの「反社会」性、「異常」性は、社会が構築した人権意識とセクシュアリティの規範を内部から破壊するラディカルな問いへと変貌する。

ほかでもないLGBTPZNの七文字が問題になることの必然性、LGBTPZNの固有性がここにある。

性的な表現に寛容な場であるはずのネット文化やオタク文化においてさえ、その主流において「ガチ」の小児性愛、動物性愛、屍体性愛は、「変態」「異常」のレッテルのもと、無邪気な差別的扱いを受けていた。むしろ、既存のLGBTでさえも十分に理解されているとはとてもいいがたいことは、誰の目にも明らかであるはずだ。LGBTPZNはそのような議論の「場」そのものを、撹乱し、見直しを迫るものである。

LGBTPZNの運動は、悪意と不可分である。だが悪意を否定的ニュアンスだけで考える必要はないだろう。われわれの日常の感覚、インターネットを使用する感覚では、悪意をもって議論に加わること、場を乱すこと、炎上を起こすことはやってはならないことだった。しかしこの感覚は、「正常な」倫理、常識、社会通念の巧妙な策略でもある。われわれの日常の倫理を飛び超えるとき、硬直した規範を問い直すとき、正常さは、それを「悪意」と名付け、そんなことをすれば炎上するぞと脅しをかけるのである。
今日のインターネットにおいて、異常なもの、規範を侵すものは、たいていの場合、何らかの炎上の状態を避けられないものである。だからこそわれわれにやれることは、いかにうまく悪意を浸透させるかということ、いかにうまく場を撹乱するかということである。

われわれは、LGBTPZNパレードの夢を見る。
小児性愛者・動物性愛者・屍体性愛者、その他諸々のセクシャリティをもった人々が、七色の旗 (否、もっとたくさんの色かもしれない) のもと、連帯し、思い思いのスタイルで、それぞれのセクシュアリティに誇りを持って街を占拠する光景を。

そのとき、LGBTPZNの悪意は、とうにその意味を失っているのだ。


この記事は LGBTPZN Advent Calendar 2016 - Adventar の三日目です。

あなたも運動に加わってみませんか。LGBTPZN運動はまだまだ生まれたばかりで、常に消散のおそれと隣り合わせです。あなたがLGBTPZNについて考えること、語ることこそ、LGBTPZNの力になります。LGBTBTPZNについて、家族や友人と議論をしてみる、ブログに記事を書く、またはTwitterアカウントを作成して、#LGBTPZNおよび #LGBTPZNさんと繋がりたいでのディスカッションに参加してください。

*1:この「事件」については 砂鉄はどのようなアカウントか – 墓場一夜 が参考になる。