同人ユーザーがDLsiteに怒るべきこれだけの理由

この記事は、DLsiteという場所が急速に存在感を拡大する中で、同人文化の中で生まれる小さな矛盾を取りこぼしていくのを、ユーザーはただ見守るしかなく、おそらくDLsite自身も、ただユーザー数を増やすことしかできなくなっていることへの応答として書かれましたが――それについてすべて論じるには紙面も能力も足りないので――2021年12月のいわゆる「DLsiteでにじさんじの成人向け作品が発売中止」という出来事について、プラットフォーマーとしてのDLsiteに対して批判的な主張を行います。

また、この記事は次の主張を行うことを意図しません。同時に、私はそのように考えてもいません。

  • コンテンツ販売プラットフォーマーは、二次創作作品を事後的に削除するべきではない *1
  • にじさんじとDLsiteはコラボ企画を中止するべきである *2
  • VTuberはASMRなどの音声コンテンツをDLsiteで販売するべきではない *3

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さて「DLsiteでにじさんじの成人向け作品が発売中止」について (私の観測範囲では)それなりの反応が起こっているのですが、残念なことにニュースサイト等で取り上げられる類の話題ではないようなので12/17追記 ねとらぼによるエイシスへの取材記事が公開されました DLsiteでにじさんじ作品が一斉販売停止に エイシス広報に販売停止に至った経緯を聞いた - ねとらぼ)、まずは事実関係を軽く整理しましょう。

【12月8日18時】DLsiteから「にじさんじとDLsiteとのASMRコラボ」が発表される

リプライを見るとかなり好意的に受け止められています。にじさんじではこれまでもボイスコンテンツをBOOTHやにじさんじオフィシャルストアで販売していますが、ファンにとってうれしいコラボということでしょう。いま調べて分かったのですが、まだあと5回配信があるんですね。結構大きな企画です。

【12月10日14時】 DLsiteの「にじさんじ所属ライバーを題材とした成人向け作品」が販売停止される
DLsiteで「にじさんじ」の成人向け作品が発売中止へ - Togetterで通告メールの文面が読めます。実際のところ何が起こっているのかわかりにくいのですが、ANYCOLOR株式会社が(権利者として?)販売を中止するよう「要請」し、DLsiteは該当作品を順次「販売停止」措置を行い、そのお知らせが販売者にメールで届く、という経緯のようです。ほぼ告知なしの即停止です。また、「成人向け作品」であることが要請の理由であることも明言されています。

【12月10日16時】 「コラボ企画」第一弾の販売が開始される
販売ページだけでなく、 特設ページも出ています(サンプルもきける)。DLsiteは同人フロアと商業フロアに分かれていて、商業フロアでは販売本数が表示されないなど売り場としての性質がいくつか違っているんですが、これは同人フロア *4での販売です。 特設ページによると、「一ヶ月の期間限定」とDLsiteは通常行われない販売形態をとっています。また、販売ページでは同人フロアでありながら販売数が表示されないようになっていて、おそらく販売数ランキングの対象からも外れています。今回が初出なのか、そうでないのかは分かりかねますが、何らかの特殊な形態で販売されているようです。

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これらを踏まえると、DLsiteとにじさんじの間に公式なやりとりがあり、コラボ音声を販売するという企画が出来上がり、代わりに成人向け二次創作が販売停止されることになったことが見て取れます。

ただし、いくつかはっきりしないことがあります(なので、今後何か追加の情報があった場合、この記事は書き直される可能性があります)。 まず、削除要請の規模について、「にじさんじ所属ライバーを題材とした成人向け作品」に該当する全ての作品に要請が出たのか、何か別の要素も絡んでいるのかは不明です*512/17追記 ねとらぼの取材によると、規模は90件で全ての該当作品が削除されたようです)。 加えて、削除要請が「コラボ企画」に伴ったものである、ということはタイミング的に確実だと思いますが、明言されてはいません12/17追記 ねとらぼの取材によると、無関係であるという見解のようです。この点については疑問が残るので、記事の末尾で補足します)。いずれにせよ、DLsiteやにじさんじから経緯についての説明が欲しいところです。

さてここで問題になるのは、コラボ企画や販売停止措置自体の是非ではなく、DLsiteの判断として、コラボ企画と成人向け二次創作の販売が両立できないがゆえに販売停止を選んだということです。 確かに、コラボ企画のために、無許可の成人向け二次創作というグレーゾーン*6を取り除くというのは、妥当な判断とも思えます。しかしDLsiteには、そのグレーゾーンを「応援する」という立場をとってきました。

がんばろう同人」は2020年にコミックマーケット準備会が主導したプロジェクトおよびスローガンです。その一環として実施された「エアコミケ」はECサイトコミックマーケットの代替を実現する試みで、DLsiteも特設ページを設けて参加し、二次創作を含む同人作品の販売を積極的に支援するキャンペーンを行っていました。 またそれに先駆けて、同人誌即売会が次々に中止される状況に、イベント頒布を予定していたサークルの手数料を無料にするなど、DLsiteは販路を失った同人作品の販売を支援する姿勢を明確に打ち出していました。 もちろん、その中には成人向け二次創作も含まれているはずですが、DLsiteがそのことを特に咎めたり、注意喚起を行った事実はありません。 さらには、2021年1211月にはDLsite成人向け同人フロアで「VTuber作品はこちら!」と題したキャンペーンを実施しています。DLsiteで公式に用意されている「VTuber」ジャンルに登録されている作品を一覧して見られるページへのバナーがトップページに特設されていた*7 ものです。もちろんにじさんじ所属ライバーを題材とした成人向け作品も含まれていました*8。 グレーゾーンが排除の対象になるのは仕方がない、というのが一般論として成り立つにしても、DLsiteはそのグレーゾーンな部分を腫れ物のように扱ってきたわけではなく、むしろ支援してきたという事実はいくつもの点から伺えることです。

このように、厳しい状況に置かれたユーザーを「応援」するとして集客しておきながら、風向き次第で問答無用の切り捨てを行うのは、作品を購入するユーザー、あるいは作品を登録するユーザーの視点から見れば、あまりにも都合の良すぎる態度です。 一度は大々的に推進していた方針を、時代の流れに従って転換するということは、たとえば、クレジット会社からの要請によってやむを得ず、という苦しい判断の場合もあるでしょう。 しかし、コラボ企画の実施は、DLsiteが完全に自発的な判断で行ったものです。ユーザーの信用を守るために方針を死守する、そういう判断もできたのに、そうしなかった。それどころか、DLsiteはほとんど告知もなく、メール一通のみでこの転換を済ませてしまいました。表現規制の問題やクリエイター支援プラットフォームの炎上は後を絶ちませんし、クリエイター支援プラットフォームが上述のように日々苦しい判断に迫られていることも理解できなくはありません。しかしここで行われているのは、(「DLsiteに登録されているにじさんじ所属ライバーを題材とした成人向け作品」という非常に限定的な影響範囲しかないために見過ごしてしまいがちですが)率直に言って表現規制以前のムチャクチャではないでしょうか。

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「DLsite」を運営する株式会社エイシスは、2021年にDLsiteがサービス開始から25周年を迎えるとともに、12月1日に新会社「viviON」の子会社になりました。

www.itmedia.co.jp

グループ再編の経緯や目的はよくわかりませんが、エイシスがここ数年拡大していた新規事業や求人情報がviviONに移っていることなどから、エイシスはDLsiteを運営する屋号あるいはセクションとして残り、総合的に二次元コンテンツ事業を行う企業としてはviviONが主体になって動いていくということでしょうか。

興味深いのは、viviONのWebページに掲げられている企業理念と取り組みです。

vivion.jp

ミッションとして、「すべての二次元オタクを幸せにする」、パーパス「ユーザーとクリエイターが楽しみながら、幸せに生きていける社会にする」を掲げています。

数多くのクリエイターたちがもっと自由に、もっと幅広い活躍ができる場をもっともっと増やす事が必要です。 私たちはクリエイターたちをいかに楽しませるかを考え、彼らを支援し、良いものが作れる環境を用意することにも力を注いでいきたいです。 クリエイターがただ単に制作を楽しめるだけでなく、それをどうすれば"稼ぐ"という商売に繋がるかをしっかりと考えた上で、クリエイターが活動できる場を展開していきたいと考えています。 また、「二次元といえばviviONだよね」と世界で呼ばれるためにも、今後はより海外進出にも力を入れて取り組んでいきたいと考えています。

viviON(あるいはエイシス)は、ECサイト事業者であると同時に、特に「クリエイター」という言葉を用いて、オタクに寄り添うことを一貫して打ち出してきた企業です。 また実情としても、DLsiteは比較的モザイクや言葉狩りが少なく、良心的な運営が行われているとされてきましたし、FANZA会長の同人誌に対する発言が炎上し、FANZAでの販売を停止する同人作家が現れたり、DLsiteに移住が行われたことは記憶に新しいです。

DLsiteはとても楽しいWebサイトです。日々新しいコンテンツが登録され、ユーザーサポートは手厚く、使いやすさも工夫されています*9。何より熱があります。 しかし(当然のことながら)DLsiteが便利であることや、ユーザーがたくさん集まることや、FANZAがクソであることはDLsiteが「オタクの味方」であることを意味しません。 なぜなら、「オタクの味方」のようなものは存在できないからです。

viviONの言葉を借りましょう。

オタクカルチャーにはさまざまな多様性があり、個々で大切にしている思いも異なります。クリエイター側とユーザー側で求めるものが大きく異なる場合もあります。そのすべてのオタクを幸せにするためには、常にお客様が何を求めていて、何を一番大切にしているかをしっかりと捉えることが、何よりも大切であると考えています。

その通り、「オタク」という言葉が包含する私たちは、求めているものや大切にしているものは大きく異なり、相容れないものであることをviviONも私たちも何度も確認しなければなりません。そして、すべてのオタクは幸せでなければなりません。企業を支えるに相応しい、力強く正しく美しい言葉です。 ただしこの文章は誤りを含んでいます、私たちが何を求めていて、何を一番大切にしているかをしっかり捉えるべきなのは、viviONではありません。 その誤りで、私たちがDLsiteに怒るべき理由には十分です。

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最後に補足的な論点に触れておきます。

DLsiteはもともと二次創作メインのサイトではなかったので、二次創作の保護が重視されないのはある程度仕方ないのでは?

確かにそうかもしれません。私の感覚としても、DLsiteで購入するもののうち二次創作が占める割合は数%にも満たないので、例えばメロンブックスとらのあななどと比べると、DLsiteとしても二次創作にそれほど深い関わりがあるというわけではないでしょう。Twitter上でちらほら聞く、DLsiteは二次創作の削除要請が多いという噂も、ありうる話だと思います。

DLsiteになぜ二次創作が少ないかというのは、そもそも二次創作の電子販売自体にちょっと特殊な事情があるということもあり、簡単に結論が出るものではなさそうです。ただ、上記の通り二次創作を含む同人活動を応援するという立場は明確に述べられている以上、それを簡単に撤回してしまう、というやり方に問題があることは変わりません。むしろDLsite全体の利益として小さければ変わり身を行ってよいという考えがそこにあるならば、例えばロリ、獣姦など、これまでDLsiteが比較的強いとされてきた分野でも、風向きによっては簡単に切り捨てられてしまうということになるでしょう。

DLsiteで企画を進めていたところと、販売停止を行ったところはまったく別に動いていて、たとえば要請に基づいて機械的な手続きとして削除が進んでしまったのでは?

不幸な事故説です。DLsiteの内情については全く知りませんが、けっこうありそうなことにも思えます。 ただ不幸な事故だというなら、本当に安心してコンテンツ販売ができるプラットフォームを目指すなら、丁寧に経緯の説明をするべきだし、そうならないように自身のありかたを見直してほしいというのがいちユーザーとしての感想です。 また、コラボを交渉するだけの関係を築いているので、機械的な手続きが全てだったというのは苦しいはずです。

(12/17追記)DLsiteは、販売停止はコラボの有無とは関係なく、権利者からの要請に基づいて通常の対応を行ったと言っている。DLsiteに責任はないのでは?

ねとらぼの取材によると、権利者からの相談は以前からあり、12月9日に正式な要請があったということです。 本文の内容の繰り返しになりますが、コラボ企画や販売停止措置のそれぞれには大きな問題はないでしょうから、DLsiteの見解に文字通り沿えば、至極当然の対応を行っただけに見えます。

ただし、コラボと販売停止の時期が一致していることや今回のような措置がDLsiteだけで行われていることから、実態としてはコラボと販売停止がひと揃えになっていることについて、DLsiteからの説明はありません。また、DLsiteはそのような販売停止措置のタイミングがユーザーに不信感を与えてしまったという見解は持っていないようです。あるいは、それらの意思決定は全てANYCOLOR株式会社が行ったことで、DLsiteは責任を持たない、ということなのでしょうか。経緯の説明がされていないので、判断できないところです。

また、こちらは新しい情報ですが、「以前から相談があった」のは「VTuber作品はこちら!」の以前だと思われます。権利者から相談を受けていながら売り物としては積極的に販売を行うことを含めて、DLsiteの「従来通りの対応」ということなのでしょうか。いずれにせよ、DLsiteはANYCOLOR株式会社と主体的に交渉ができる関係にあり、かつ「相談があった」コンテンツを積極的に販売しながら、販売停止措置に関しては「言われたらからやった」以外の立場を持つつもりはなさそうです。 これまでの補足で述べた通り、DLsiteが今後も同様の立場にあくまで固執するなら、単なるECサイトではないクリエイター支援プラットフォーム、というDLsiteの独自性は既に損なわれているでしょう。

*1:個人的には、二次創作をできるだけ守ろうとする動きを応援したいのですが、権利関係の問題はケースごとに複雑で、一概に述べられることではありません。また、このような個別のケースを扱う場合も、そもそも無許可の二次創作であることと、成人向けであることを注意深く切り分けて……といった議論から始める必要があり、規制の是非じたいについて論じるのはとても難しいです。

*2:「販売停止を撤回してコラボを中止」は……起こり得ないとは思いますが誰も幸せにならない結末です。コラボ企画は絶対に続けるべきです。

*3:私は同人音声リスナーですが、VTuberと同人音声が交わること自体は、歓迎すべきことです。DLsiteの一般向け音声作品のランキングがすっかり有名声優に塗り替わってしまったことについては別件で思うところはありますが、それでも同人音声という概念は、新しい流れの中で思っていたよりもうまく形を変え続けられているように感じます。たとえば周防パトラの音声は同人音声リスナーの間でもかなり好意的に迎えられましたし、今回の件についてもコラボ企画が行われ、販売されるだけならまったく平和な出来事だったと思います。

*4:同人音声には「企業サークル」みたいな概念があり(美少女ゲームを制作している企業が公然とサークル名義で音声を作っている)、「にじさんじは同人じゃないだろ」というツッコミは限りなく意味がないのでここでは議論しません。ちなみに商業フロアの音声作品も一応あり、ぱれっとビジュアルアーツ制作の音声が購入できます。

*5:VTuberジャンルで見たところ、ほぼ全滅しているように思います。

*6:ちなみに、ANYCOLOR株式会社は二次創作ガイドライン https://event.nijisanji.app/guidelines/ で明確に二次創作についてのスタンスを示してます。(12/17追記 ANYCOLOR株式会社は、)このようなガイドラインを策定し、「安心して二次創作活動を行っていただける」ことを目指すならば、今回の件が具体的にどうガイドラインに違反しているのかを明言するべきだとは思います。

*7:https://web.archive.org/web/20211202000227/https://twitter.com/soda_in_gumi/status/1465711509687107584

*8:今となっては確認できませんが、DLチャンネルのまとめ記事(R18記事の表示をONにしてください)などから、無視できない規模があったことが伺えます。

*9:サーバー障害は多い

大阪声かけ写真展に行ってきた

君のこといつも見つめてて
君のことなにも見ていない

9月の海はクラゲの海 / ムーンライダーズ

もしいま、あなたの手元に国語辞典があるなら、お手数をおかけするが、「不審者」という言葉を引いていただきたい。おそらく、載っていないはず*1

*

私が初等教育を受ける年齢になって小学校に通いはじめた、つまり「児童」になったのは2002年の春だった。"フシンシャ"という音の連なりと、それに伴うサングラスにマスク姿のイメージは私にとって、そしてクラスメイト全員にとって小学校生活の日常風景だった。友達をいじるときにも「お前フシンシャやろ」という言葉*2が何の含みもなく発せられ、始業式の日には黄色い防犯ブザーや緑の半透明の防犯笛が配られて、私たちはそれがどんな場所で製造され、どんな指導や決定のもと自分の手に届いてるのかについて想像を巡らせさえしないまま、ランドセルの脇にぶらさげて、専ら下校のときにふざけて引っ張って通学路にかん高い音を響かせていた。

思い出してみると、下校時刻の記憶をいくつも覚えている。二つ隣のアパートの駐車場が通学班の集合場所だった。川を渡った向かいを少し行った先にある大きな古い家の塀にみんなで草や土をこすりつけて絵を描いて本当に楽しかった*3。発表会で同じ鉄琴パート担当になった転校生と2人きりになって階名を暗唱しながら帰った。通学路の家には「まもるくん」ステッカー*4が貼ってあった。地域見守り隊だかなんだかの名前のついた服を着てるおばさんが挨拶をしていた。

声かけ写真の中の子どもを初めて見た。どれも20-30年ほど前の時代の子どもたちらしい。
「見たことある」子どもだと思った。

家庭を持たない成人が生活を送るうえで、ほとんど子どもにかかずらうことなく済んでしまうほど、子どもを社会人が回している「社会」の文字通り外側にいるものとして扱えるほど、2019年の文明は整然と整えられている。そんな状況で、何者でもない者にとって子どもを「見る」ことができる時間と場所は限られている。夕方の公園、公民館、日曜日午前中の河原、休日のショッピングモール、お祭り、その他いろいろ。子どもが遊ぶに相応しいと親や学校が認めている場所、あるいは、親と一緒に居られる場所で、親しい家族や友人と遊ぶ。いないはずの子どもはいるところにはちゃんといて、そして「いるべき場所」にいる子どもは、朝ドラとも、子ども向けファッション誌とも、ジュニアアイドルのビデオとも、漫画やアニメとも、全く違う表情をする。声かけ写真の中の子どもは、その顔をしていた。

子どもとある種の「信頼」関係を持たなければ、声かけ写真は撮ることができない。実際、注意深く鑑賞していれば、同じ人物を被写体としながらも服装や場所の異なる写真があること、すなわち時間の余白の存在に気がつく。その余白を、彼ら――被写体、撮影者――は、どう過ごしていたんだろう。しばしば痴漢や盗撮のアナロジーで語られる「声かけ写真展」の、その名前から受けるような、サッと甘い声をかけてサッと立ち去り、晒し上げる*5ような暴力的なイメージとは遠く離れた世界の出来事を目にした。

もちろんバイアスを承知のうえでそれでも、声かけ写真展の全ての写真について、あたりを通りがかった大人に写真そのものを見せたなら、その中に explicit な、あるいはわいせつなニュアンスを感じさせるような写真は一枚もないはずだと断言できる*6

私は子どもが好きだ。子どもを見るのも好きだし、それと同時に、子どもが平和に暮らしてほしいと心から願っている。私にとって声かけ写真展は、子どもが純粋に好きだという気持ちと、その裏返しの、それに内在する暴力性という私自身の鏡写しのようで、鼻につくようなノスタルジックなテーマ性、現在の自分たちの世界観以外を一切顧みない単純な批判の声のどちらもまともに考えるのが嫌でたまらなかった。半分くらい開かれてほしいと思っていたし、半分くらい開かれてはいけないと思っていた。

だからこそ、声かけ写真の余白に、愕然としてしまった。


*


「かつて存在した声かけ写真という文化」という主催の言葉は何の捏造でもない。子どもの写真が「絵になる」として写真愛好家の間でジャンルになり、一般向けに指南本さえ出版されていた。今でも写真愛好家が何気なく子どもの写真を撮影してトラブルになる話は耳にする*7。今日、フォトジェニックな「子ども」は専らSNSで愛しい我が子との日常を紹介するツールにすっかり収まってしまったのだろう。声かけの時代と現在との間に横たわる何か大きな断絶。社会の何が、なぜ変わってしまったのだろう?

朝日新聞のデータベースから不審者という言葉を検索すると、古い記事では専ら「捜査線上に上がる人物」という意味で使われている*8。80年代までは誘拐の警戒に関する記事がいくつか目につくに留まるものの、90年代からは直前に発生した通り魔や殺傷事件を受けての「子どもを地域で守る動き」という文脈での言及が増えてくる。そして2000年代からは「子どもを不審者から守る取り組み」「地域の不審者情報」といったお馴染みの記事が爆発的に増加していく。

決定的な契機は間違いなく2001年、宅間守による附属池田小事件だ。当時の世論を受けて文科省は02年に「学校への不審者侵入時の危機管理マニュアル」を作成。同年、大阪府では「安全なまちづくり条例」が制定され、03年に東京で同様の条例が制定されるのをきっかけに全国で同様の動きが拡大する。それらの取り組みにはいずれも、地域や学校の子どもへの「まなざし」が子どもを危険から守るという理念が背景にあった。以降、地域と行政が一丸となった「安全な町づくり」――繋がりが失われていく社会と、何を考えているか分からなくなった子どもたちへの潜在的な恐怖が背景にどれだけあったろうか――は子どもの安全対策を中核とした理念のもと全国に急速に広がっていく。あとはもう、現代のお話である。「声かけ条例」は、宮崎勤ではなく宅間守によって作られたものなのだ。「安全な町づくり」の中で子どもの安全対策は子育ての最重要事項の地位を占めるようになっていく。地域の防犯パトロールは高齢者に与えられた、暖かい地域を繋ぎ止める役割を感じさせる格好の生き甲斐となる。

まなざしが、子どもに向けられる。地域あるいは社会全体で最優先に守るべき宝、すなわち「公共物」としてのまなざしである。

*


写真は真実を写し取ることはできない。写真は、被写体を切り取ると同時に撮影者のまなざしも切り取る。声かけ写真の中にはそこにしか存在しない大人と子どもの関係があった。子どもが晒されていたのはどんなまなざしだったろうか。

子どもの情報の向こうには等しく子どもの存在がある。30年前のフィルム写真の向こうにも、数行の文字列に圧縮された不審者情報の向こうにも、携帯電話を子供部屋の床に直置きにして撮影されたYouTube動画の向こうにも、ショッピングモールで一瞬すれ違った親子連れの子どもの服装の記憶の向こうにも、情報の幽霊と背中合わせに、ひとりの子どもは確かに存在している。「安全な町づくり」の世界で生きていた当時の私も、声かけ写真の子どもたちもきっと幸せを知っていた。だが2002年にも、30年前にも、その世界の裏側で搾取され傷つけられる子どもは存在したはずだ。また同じく、行政その他の取り組みによって安全を与えられた子どももいるだろう。子どもは単なる性的対象ではないし、同様に公共物でも、親権者の所有物でもない。本当は安全な社会も、邪悪なまなざしも、存在しない。あるのは自分と、自分の目の前にいる人間の人生でしかない。情報の幽霊に魂を吸われてはいけない。

声かけ写真を通して大人と親しくなった子どもは、時が経ち、発達段階を踏むにつれて大人を疎ましく思うようになり、互いに疎遠になっていくという。

エスロリータ、ノータッチ。それはそう。それで?

子供みたいに愛しても
大人みたいに許したい

Everything is nothing

9月の海はクラゲの海 / ムーンライダーズ

*1:日本国語大辞典第二版、新明解国語辞典第六版、広辞苑第六版には収録なし。2018年改訂の広辞苑第七版には収録されている。

*2:北朝鮮、テロリスト等と同様。

*3:次の日先生に呼び出されて消した。

*4:子どもの防犯に協力する家の印。

*5:ところで展という形だとそういう面が出てしまうのは避けられないと思う。社会的な性質を帯びていることが分かっている以上、写真を販売するのは論外として少なくとも入場料は撤廃してカンパ制にするべきだ。

*6:梅佳代の写真のほうが絶対危ない

*7:声かけ写真展に反対する署名活動の主催である大月久司氏は「いくら昭和でも北海道の田舎でも、普通知らない人の写真は撮りません。」とまで言っている。写真のことを何も知らないのか?

*8:「本人からの反応依然なし 防犯ビデオの不審者 グリコ・森永事件」(1984年10月17日 東京/朝刊)など。

「VTuber」と「バーチャルYouTuber」についての覚え書き

TL;DR

キズナアイのことVTuberって呼ぶと俺が怒る

キズナアイYouTube

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber』でのインタビュー冒頭でキズナアイはこんなことを言っている。

── バーチャルYouTuberの原初の存在であるキズナアイさんにとって、そもそもバーチャルYouTuberとはどういうものなのか、まずはご自身の定義から伺えればと思います。

今まであまり言わないようにしていたんですけど、バーチャルYouTuber=キズナアイ、という気持ちはいまだにあります。というのも「バーチャルYouTuber」というのは 、もともとわたしが活動を始めるにあたって名乗った言葉だったんです。すごく最初期の 、まだ自分しかそう名乗っていなかった時期には完全にバーチャルYouTuber=キズナアイでした 。

今でこそバーチャルYouTuberの元祖、もしくは親分として名の通るキズナアイだが、複数のバーチャルYouTuberと呼ばれる存在が一気に存在感を増す2017年の12月までは、当然のことながらほとんど独自の存在としてYouTubeに動画を投稿し続けていた。

キズナアイが作成する動画やTwitterや各種インタビューでの発言から見て、キズナアイというキャラクターの核を

  • AIで
  • 人間のみんなと仲良くなるために
  • YouTubeで動画を作っている

の三点に絞ることができるだろう。この三点はキズナアイが登場して以来その活動のあらゆるところで繰り返し現れており、また現在においても一貫してキズナアイの活動に現れ続けている*1

たとえば、キズナアイ単独時代のちょうど末期(ちなみにこの時点でチャンネル登録者数は100万人を超えていたらしい)に発売された『コンプティーク』2017年12月号でのキズナアイ一万字超えインタビューでは、年齢や好きな動物といった簡単な質問にAIならではの回答をしつつ、AIがバーチャル空間から人間へ動画を届けるという前代未聞の試みの苦労と展望を、主に既存のYouTuberと比較しながら語っている。

先ほど示したキズナアイの三要素のうち、前の二者がキズナアイというキャラクター性を規定しているとするなら、「YouTubeで動画を作る」ことはキズナアイの活動を規定している。キズナアイは最初のバーチャルYouTuberだけあって、単に動画を発表する場所としてのYouTubeを選んだというよりは、かなり「YouTubeで活動する」ということに意味を見出しているようだ。

実際、『A.I.Channel Fan Event 2018』が行われたのはYouTuberの聖地・YouTube Space Tokyoだし、そしてマックスむらいやおるたなChannelからお祝いメッセージをとってくるあたり、キズナアイという存在と(単なる動画共有サイトではないものとしての)YouTubeとはかかわりが深く、企画の段階でかなりYouTubeありきのところがあったのではないかと思う。このとき、キズナアイは、紛れもなくYouTuberだった。

ところが、バーチャルYouTuberと呼ばれる存在が増加し、いつしかVTuberという言葉が使われるようになると、事情が複雑になり始める。たぶん、多くの人はVTuberバーチャルYouTuberの略称程度にしか考えていないように思うが、2017年5月頃からのキズナアイの熱心なファンである私はずっと何となくこの単語に違和感を覚えていた。また、キズナアイ自身もバーチャルYouTuberという名前にこだわりがあるようで、前掲の「ユリイカ」インタビューでキズナアイ本人がこの言葉についてコメントしている。

ただ 、みんなの言っている「VTuber」は自分で名乗らないようにしてて、常に「バーチャルYouTuber」と言ってます。VTuberというのは誰かが作った言葉で、わたしが「バーチャルYouTuber」と言うときの「バーチャルYouTuber」はあくまでもずっと名乗ってきたわたしの二つ名的な感じなんです 。わたしは自分のことをずっとYouTuberだと思っていて、だけど人間のみんなとは違うバ ーチャルな存在だよね、というわりと単純な考えで名乗り始めた言葉ではあるんですけど、この響きを大切に思っています。だから自分自身を表す言葉として「バーチャルYouTuber」を使っています 。

キズナアイは自身をYouTuberであるとはっきり規定しており、それは当時の事情からして参考になるものが既存のYouTuberしかなかったからでもあるだろうが、VTuber登場以降も一貫して動画のスタイルや設定はブレることなく、YouTuberであるというスタンスを維持し続けている*2

さて、ここで宣言されていたようにキズナアイVTuberという自称をはっきり避けている。このことを知ってもらえれば今日伝えたかったことは全て言ったようなものなので、何ならこれだけ覚えて帰ってもらえばよい。

以下では補足として、このような歴史を踏まえて、「バーチャルYouTuber」という言葉が持つ(キズナアイの言うところの)「響き」とは何かに注目し、「バーチャルYouTuber」「VTuber」それぞれについての語用を整理することを試みたい。

バーチャルの二つの意味

そもそもキズナアイはAIである。「AIが / 人間のみんなと仲良くなるために / YouTubeで動画を作っている」キズナアイの動画を彩る様々な要素、白い空間やAIやシンギュラリティは多分にSF的な雰囲気をまとっている。見落としがちだが、キズナアイがバーチャルであるのは昨今盛り上がっているVRゲームような意味ではない。キズナアイはAIであり、つまりは文字通り実体というものが存在しない、そういうことの宣言である。キズナアイの名乗る「バーチャル」にはもとはそういうニュアンスがあったのだろう。

一方で多くのVTuberはAIではない。キズナアイがAIでいつどのように生まれたという強力なバックグラウンドを持つことに対して、たとえば輝夜月やミライアカリやときのそらや富士葵が何者であるかという問いに答えるのは難しい。しかし、バーチャルYouTuber/VTuberを自称する彼女らは程度の差こそあれ揃って「バーチャル」を意識して振るまっていることには違いない。この「バーチャル」とは一体何だろうか。

いくつかのVTuberについてそれが自分をどのような存在だと規定し、どんな名前で呼んでいるのかをまとめてみる。ちなみに、上から登場順に並んでいる。

名前 キャラクター性 自称
キズナアイ AI バーチャルYouTuber
シロ バーチャル世界のYouTuber(破綻*3 電脳少女、バーチャルYouTuberVTuber
YUA 実在する女子高生→バーチャルの存在*4 次世代YouTuber→VTuber
ねこます 現実の男性が3Dアバターを操作 バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん
輝夜 なし なし
月ノ美兎 委員長(なりきり) バーチャルYouTuberバーチャルライバーVTuber

こうして見ると、フィクションのキャラクターとその背景にある演者という二重性*5への立場を

  • 設定を固めてフィクションの存在にする(キズナアイ、初期YUA、アニメ発VTuber
  • 背景技術について明言する(ねこます)
  • 設定はあくまで建前としてフィクションとしての矛盾も辞さない(多数)
  • 説明を放棄する(多数)

と大きく分類できる。

「建前」型はたとえば配信中にライバーが水を飲んだりする行為が該当するが、これは「フィクション」型と「明言」型のミックスのようなもので本当はこれらはグラデーションになっている。いずれにせよこれらがバーチャルと呼ばれるのはそれなりにもっともらしい。

奇妙なのは説明を放棄するタイプである。説明が無ければバーチャルも何もないのではないか。たとえば輝夜月はここで起きている現象そのものが輝夜月であると言わんばかりに自分が何者であるかを全く定義していない*6。ここで起きているのは、(例えば)虚構と演者の二重性に、あるいはVTuber達の中でのそのありかたの多様性にきっちりと折り合いをつけなくてもVTuberと自称すること、そして具体的な活動内容さえあればとりあえず誰も疑問に思わずに成り立たたせてしまえる事実である。言わば既存のVTuberとそれなりに似てさえいれば「そういうもの」としてVTuberになってしまえるし、同時にバーチャルという概念は既存のVTuberが参照するVRやフィクションの概念をゆるく参照することで成り立ってしまえるのだ。

逆の例を考えてみる。「てさぐれ!部活もの」は架空のキャラクターの3Dモデルに声優を割り当てて散漫なおしゃべりをさせるという、業態としてはVTuberと呼んでも差し支えないコンテンツだが、にもかかわらず、まったくバーチャルという雰囲気はまとっていないし、端的な事実として「てさぐれ!部活もの」をVTuberと呼ぶのはあまりにも不適切に思える。

そうなると、結局VTuberという言葉は定義を与えるよりは歴史的な経緯や活動する文化圏によって定まってくる場当たり的な概念と考えたほうがいいという結論になるだろう。

ここまでくると、キズナアイに戻ることができる。キズナアイVTuberか、という問いには、一旦は「キズナアイバーチャルYouTuberでありYouTuberでありスーパーAIだ」と答えたい。けれども一方で、以上の議論を踏まえれば、極めて逆説的だが、月ノ美兎が「委員長のVTuber」であるように、キズナアイを「バーチャルYouTuberVTuber」と呼ぶことも、あるいは可能だろう。

キズナアイVTuber

ここまではキズナアイとYouTuberのかかわり、そしてキズナアイと他VTuberとの差に注目してきたが、もちろんキズナアイVTuber文化圏の中でも特別な位置を占めており、交流も盛んである。最後にキズナアイVTuberとのかかわりについて簡単に触れておきたい。

キズナアイ関連会社であるActiv8はupd8というプロジェクトを立ち上げたが、キズナアイだけでなく幅広い層のVTuberを視野に入れて活動を進めているらしい。

キズナアイ本人もVTuberという文化についても人間とかかわりの中で重要なものだと認識しているようで(本人が楽しいのもあるだろうが)、Twitterでの交流はもちろん、キズナアイ杯を主催したり、VTuberネタの動画もそれなりの数を作り続けている。

キズナアイのYouTuber的な活動がきっかけでVTuber独自の文化に発展した例もある。キズナアイがいつもの調子でアップロードした動画「【怒ってる?】ツンデレってこれであってますか?【怒ってないよ♡】」は他のVTuberを刺激し、それぞれのVTuberが同様の企画を独自色を出しながら動画にするというちょっとしたムーブメントが発生した。これは既存のYouTuberにおける「チャレンジ」系動画の流行と似ていて個人的には興味深い出来事だった。

さて、実は、先に述べた『A.I.Channel Fan Event 2018』には、YouTuberばかりがおめでとうコメントを寄せる中でただ一人、VTuberとして輝夜月が応援メッセージを寄せている*7キズナアイの誕生日イベント「A.I. Party! 〜Birthday with U〜」ではたくさんのVTuberが会場に登場し、とても賑やかでVTuberという大きなうねりを作り出したキズナアイへの祝福を感じさせたが、輝夜月が手書きの手紙を読み上げながらキズナアイへの想いを吐露するクライマックスシーン(何?)では、会場は終始、情愛と当惑の入り混じった文字通り異様な空気に包まれていた。

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歴史に残るバーチャル・ハグの様子

なぜ輝夜月がキズナアイのことを大好きだということが文字や声やドットの荒いスクリーンで形になると泣いてしまうのか?それはキズナアイ輝夜月のことを大好きで、私がキズナアイ輝夜月のことを大好きだからである……!

最後に「ユリイカ」でのキズナアイの言葉を引用して結びとする。

── あくまでもYouTuberであって、しかしそのうえでバーチャルな存在なので「バーチャルYouTuber」ということですね。

みんな「バーチャル」をどう捉えるかは自由かなって思うんですけど、わたしはバーチャルYouTuberというのはYouTuberのなかのひとつのかたちでしかないと思っていて、どちらかというと、わたしの活動でYouTuber人口が新しく増えて、YouTubeを盛り上げられたのかな?だったらうれしい!という認識なんです。(中略)

── とはいえ他方では、いわゆる生身のYouTuberにはあまり関心を払っていなかったような人たちがバーチャルYouTuberには盛り上がるということが実際あったわけで、その違いはどこにあるとお考えですか。

(中略)でもわたしはやっぱりどちら側の人ともつながりたいと思っているし、仲よくしてよ!というのもあって、壁をなくすような活動はどんどんしていきたいと思っています。そこはわたしの課題ですね。わたしは世界から争いがなくなって、世界中のみんなに仲よくなってほしいって思っているんですけど、それにはさっきお話ししたアンチと肯定派の戦いみたいなものじゃない、もっと大きな壁を乗り越えなきゃいけない。(中略)でもまずは小さなところからやっていくしかなくて、たとえばホリエモンさんとコラボしてもみんなが怒らないような、そういうところから始めなきゃいけないなと思っています。

*1:ただ、YouTubeはあくまで手段であって、しばらくはホームであり続けるだろうがそこで活動することがキズナアイにとって本質的なことではないらしい。これも「ユリイカ」で詳しく語られている

*2:上坂すみれにメントスコーラやらせたりとか

*3:設定こそコンピュータの中にしか存在しないことを意識しているもののトーク内容は普通に現実の生活を送っていることを前提としているとしか思えない状況がしばしばある

*4:【新人Vtuber】振り回される健気な女子高生【爆誕?】 - YouTube

*5:この関係に「バーチャル」という言葉が違和感なく当てられ続けている背景にはVRChat等のVR技術が広く認知されていることがあるだろう

*6:輝夜月の「お手伝い集団」AOは「ユリイカ」で「どこからやってきた何者なのか、中の人はいるのか、といったことをすべて受け撮る側に委ねてしまっている」と語っている

*7:https://twitter.com/aichan_nel/status/974964053419335681輝夜月の出自がミクチャにあり、ここで披露している芸もミクチャ系統のネタであることは興味深い

今からでも間に合う!「ヤマノススメ」のススメ

まずはこれを見てほしい。


ヤマノススメセカンドシーズン PV第2弾

少しでもかわいい!と思ったなら、今すぐヤマノススメを見るべきだ。ヤマノススメは、きっとあなたに更なる「かわいい」をもたらしてくれるから。

ヤマノススメを見よう

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2013年の第一期放送から2014年のセカンドシーズン、そこから長いブランクを経て2017年にはOVAの劇場公開、そして今年の7月からファン待望のサードシーズンが放送される予定のアニメ「ヤマノススメ」。

セカンドシーズンに衝撃を受けて以来5年間にわたってヤマノススメに執着し続けてきた筆者だが、ヤマノススメに触れないままサードシーズン放送をやり過ごしてしまう人々が存在する事実に居ても立ってもいられずこの記事を記す。

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LGBTPZNは何を破壊しているのか、あるいは「やってしまわないための連帯」の(不)可能性

宮沢賢治よだかの星という童話があります。

「よだかは、実にみにくい鳥です。」から始まるこの童話のあらすじを少し紹介させて下さい。*1

顔は味噌をつけたようなまだら、くちばしは平たく耳までさけて足はよぼよぼの「実にみにくい鳥」であるよだかは、鳥の仲間の面汚しと呼ばれて生きています。なかでも一層よだかを目の敵にしている鳥がいます。鷹です。よだかのような醜い鳥が同じ「鷹」の名前を持つことが我慢ならない鷹は、よだかの顔を見るたびに名前をあらためろと因縁をつけます。

「おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです。」
「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」

自分がいやになったよだかは空へ飛び出します。花の蜜を食べる蜂すずめや魚とりの名人のカワセミとは違って、夜だかは羽虫を食べて食らしています。それも、耳まで裂けた口を大きく開いて空を横切りながら、何匹も何匹も食べなければいけません。

 雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)

よだかは力尽きるまで空高く飛び上がったあと、さかさになっているのか、上を向いているのかもわからなくなりながら、命を落とします。

気がつくとよだかは星になっていました。ひとつの星になって、今でも青く燃えているそうです。

 

*

 

LGBTPZNという言葉がインターネットに登場してから長い時間が経ちました。

私たちの見た夢が少しでも実現に近づいたかどうか、私には分かりません。

wezz-y.com

牧村朝子氏がLGBTPZNについて論を発表したと聞いて驚きました。LGBTPZN運動において私が最も頭を悩ませていた(かつ、予想外だった)のは、ネット上でLGBTPZNが拡散する中で読者が思い思いになす解釈は、そもそもLGBT運動すら前提としていないものが多数だったことです。LGBTPZNがすべての性を尊重することの正当性を掲げているのは何よりもLGBTが旧世代の規範を少しずつ打ち崩してきたその論理によってであり、間違っても同じ変態だからだとかが理由ではないのですが、その元となったLGBTの歴史や議論を踏まえられていないがためにLGBTPZN自体を誤解してしまっているという事態は往々にして*2起こっていました*3。牧村朝子氏がLGBTに関する言論・執筆活動を活発に行っていることはよく知っていたので、その点で安心すると同時に、LGBTを切実に考えたその人にとってLGBTPZNがどのように映るのかについて期待に胸を膨らませました。

ひととおり拝読したところ、気になる点*4はあったものの、性的指向性的嗜好のあいだに人工的に設けられたヒエラルキーへの疑問という点では評価されていることに手応えを感じました。というのも、性的指向性的嗜好でのLGBTとPZNの分断というのはある程度LGBTの文脈を踏まえた人がLGBTPZNをとるにたらないものと見なすための常套句だったからです。この観点については非常に貴重な意見をいただけたと思います。

ただし結論部にあたる"全ての人が「やってしまわないための連帯」"という言葉が、どうしても気になりました。

私の結論を先に述べます。「やってしまわないための連帯」は可能である。だが、可能ではない。

 

*

 

さて、牧村氏の記事の中で「やってしまわないための連帯」が登場する経緯を追いましょう。(私のこの記事での議論は牧村氏の記事にその多くを負っているので、以下は一度牧村氏の記事に目を通してからご覧いただけると幸いです。)

全ての人には、性のあり方にかかわらず、
1.好きなものを好きでいる自由がある。ただし、性暴力は他者の自由の侵害である。
2.嫌いなものを嫌いでいる自由がある。ただし、侮辱・蔑視・攻撃は他者の自由の侵害である。

牧村氏の記事で三度にわたって繰り返されるこの一対の主張をここでは「自由と侵害の原則」と呼びましょう。LGBTPZN運動の発祥にかかわってはいないながら当事者としての切実さに満ちた先駆的な文章を発表し初期のLGBTPZN理論家たちを鼓舞した nexa 氏の言葉を借りれば、「各個人の信条が異なる以上、『自分の気に入らないこと』と、法的あるいは思潮としての不正義を先験的に同一視することは不可能」であること、「人間の想像力の中に留まるときは、あらゆる性的幻想は等しく尊い」こと。これらのことは人類の長い思想史の中で得られた尊ぶべき結論のひとつであることは確かです*5。他者に対する身勝手な暴力はもちろん法のもとで禁じられています。

さて、この原理を繰り返しつつ、テーマであるLGBTPZNの歴史を掘り返すのが牧村氏の記事の前半部でした。そしてそこから性暴力加害者の自助団体の紹介を経由して結論されるのが「やってしまわないための連帯」の可能性です。*6

牧村氏の記事ではなぜか具体名がひとつも挙げられていないのですが、確かに小児性愛者をどのように扱うかという問題について自己コントロールはいまホットな分野です。「道徳的な小児性愛者」運動をかかげるTodd Nickersonは積極的にメディア露出しているし、小児性愛の「治療」に取り組むドイツのセラピープログラムは話題を呼びました。

わたしは(たぶん)ペドファイル(と呼ばれるべき人)ですが、多くのペドファイルたちと同じように、多くの子どもが身勝手な性被害によって苦しめられていること、その傷の重さ、そして大人たちがあらゆる手を尽くしてそれを守ろうとしていることを知っています。これだけは明確に言います。私は、「やってしまわない」社会を望みます。

さて、私のやるべきことは、「やってしまわないための連帯」を作ることです。やってしまわないように、みんなで頑張りましょう。。…本当に?

自助団体というのはすぐれた仕組みです。性暴力だけでなく、アルコール、薬物、ギャンブル、各種の依存症、精神障害、がん患者。これらの自助団体が世界各地で一定の成果を挙げていることは疑うべくもありません。*7

なかでも「やってしまわない」性の強い依存症の自助団体を例にとって考えてみましょう。これらが現在依存症治療の友好な手段のひとつとしてみなされているのは、あくまでもセラピーのやり方のひとつとしてであり、依存症脱却のための最良の方法とみなされているというのは聞いたことがありません *8。否、それどころか、それは不可能です。なぜなら、"自助"が完全に機能するならば、それはもはや自助ではなくなるからです。私たちは「やりたくないのにやってしまう」例をいくらでも知っているはずです。薬物、殺人、自傷、どんなに抑止力を持ち出しても「やってしまう」人が存在するのはなぜだか考えたことがありますか。力で抑えつけてすべてを済ませるには人の意志はあまりにも厄介すぎるからです。

残念ながら特殊な境遇に立たされた君たちが正常な私たちの連帯をそのまま真似るのは無理だから、君らの連帯は自分たちを縛る連帯になっちゃうけど仕方ないね、と。こんなバカな話はないです。それは連帯とは名ばかりの都合の良い押し付けです。そんな選択肢は拒否します。特殊な境遇を引き当ててしまって残念だったね、で済むのは他人事だからでしょう。LGBTの歴史の中で、マジョリティの側がコンバージョンセラピーの名のもとに行っていた「治療」がどんなに屈辱的なものだったかをあなたは知っているはずです。PZNは、たまたまそれが社会的に正しくないというだけで、自身のアイデンティティを差し出さなくてはならない*9

もしあなたがすべてのアルコール依存症患者が自助団体によって救われると本当に思うなら、人間の意志と尊厳とを軽く見すぎです。やってほしくない。やりたくない。やってしまわないための連帯をしよう。おしまい。こうはなりません。なるはずがないのです。それはまぎれもなく他者に対する想像の放棄です。

「やってしまわないための連帯」が無意味だとは言いません。むしろ多くのそれを必要としている人の葛藤を癒すでしょう。自助団体は監獄ではありません。ただ、当事者たちの問題は当事者の自助に任せてしまえばいいのだという想像力は、監獄を産みます

 

もう一つ大事なことを言わせてください。そもそも、「やってしまう」ということを誰が決めているのか、ということについてです。

ここで安易に極端な相対主義を持ち出すつもりはありません。多くの"穏健な"人々と同様、私はこの時代のこの社会が決めた規則に従うことの価値を知っています。しかし歴史の経緯として、同性愛や性の境界侵犯がかつては秩序や風紀の美名のもとに「やってはいけない」ことになっていたことは事実です。ひどい話だと思います。そして、それが「やっていい」事になったのは規範よりも個人に価値が置かれるようになったこと、何よりも幾多の運動家たちが訴えた「正当性」が社会を少しずつ変えてきたことのおかげであるのもまた事実です。

もう一度言います。私は、「やってしまわない」社会を望みます。そして、現代という時代とこの社会が持つ「自由と侵害の原則」を尊重しています。法律*10を理解しています。それらのことを確信しています。だけど、児童と成人との間の恋愛は絶対的に不平等なのでしょうか?殺したり食べたり好き勝手にしている動物を、なぜ性的な目的で扱うことがタブーなのでしょうか?死体を犯したとき誰の何が損なわれるんですか?近親相姦はなぜ忌避されなければならないんですか?あるいは児童と成人のプラトニックな恋愛を社会は許していいのでしょうか?すべて人間は何度目かの誕生日を過ぎた途端に「同意」の能力が備わるんですか?

誰か答えてください。

 

*

 

LGBTPZNには言葉としてのLGBTPZNと、運動としてのLGBTPZNがあると、私は思います。
私にとってLGBTPZNが重要であるのはほかでもない運動としてのLGBTPZN、炎上・悪意・諧謔・夢想・破滅のなかでうねる運動としてのLGBTPZNであり、言葉としてのLGBTPZNはその殻、オモチャに過ぎません。

言葉としてのLGBTPZNは、白昼の中にあらわに晒された表面としてのLGBTPZNです。自由と平等と博愛を謳っています。牧村氏の言うように、あるいはnexa氏の言うように。
言葉としてのLGBTPZNは、たしかに「全ての性的ありようは虹のスペクトラムのように切れ目なく繋がっているものであり、我々は性的ありようによらずお互いを平等な一人の人間として尊重しなければ」*11ならないと、LGBTとPZNの壁、正常と異常の壁を取り払うものでした。とはいえ、これは正直言って行為と内心の区別さえついていればLGBTからのごく自然な結論として受けいれられる程度の破壊に過ぎません。

匿名のVIPPERがLGBTPZNを「闇の深い概念wwwwwwwww」*12と囃し立てたことには学ぶべきものがあります。運動としてのLGBTPZNの本質は闇の中にあります。そしてその仕事はもっと見えづらい部分で行われる、もっと根本的な破壊です。

LGBTPZNは、「LGBT」から「はみ出たものを見る」ための手掛かりなのでした。ここで「はみ出たものを見る」という言葉には二つの異なったレベルの意味を持つのです。ひとつめは、先に述べたように、性的指向という正しさから除外されたセクシャリティを包摂すること。そしてもうひとつは、どんなに「正しさ」をつきつめても絶対に正しくなることができないものへのまなざしを投げかけ続けることです。*13

法と倫理によって徹底的に自分自身を破壊された者が、なおも何らかの倫理や価値観に対して誠実であることは可能だろうか?

LGBTPZNは遊戯的であるべきだが、遊戯ではない – 墓場人夜

人は罪も後ろ暗さも持ち合わせています。正しさの光からはみ出した闇、そこから完全に逃れられる人間は本当は誰もいないはずです。正しさと正しくなさの境界をはっきりさせるだけがすべてではない。LGBTPZNは正常と異常とのあいだに設けられたある一つの区切りを破壊するだけではないのです*14正常と異常を区別することで安心し何も見えなくなってしまう私たちのどうしようもない性向。その枠組みそのものを破壊するための方法です。

LGBTPZNの運動は、悪意と不可分である。だが悪意を否定的ニュアンスだけで考える必要はないだろう。われわれの日常の感覚、インターネットを使用する感覚では、悪意をもって議論に加わること、場を乱すこと、炎上を起こすことはやってはならないことだった。しかしこの感覚は、「正常な」倫理、常識、社会通念の巧妙な策略でもある。われわれの日常の倫理を飛び超えるとき、硬直した規範を問い直すとき、正常さは、それを「悪意」と名付け、そんなことをすれば炎上するぞと脅しをかけるのである。

LGBTPZNの現在地 - 自然法被害者の会

"倫理ハック"という概念があります。
「世の中は矛盾の塊」という俗な言葉であらわされるとおり、私たちは私たちの規範である倫理が本当は曖昧で矛盾していることを肌で知っています。矛盾やパラドックスは存在しているのに"見えていない"からこそ問題になります。そして、それを"見える"ようにするための有効な手段は、それをやってみせることです。やってみせたことは、それを理解することができる者には強力なメッセージ、あるいは問いになります。運動としてのLGBTPZNがねらうのは、まさにそれをきっかけに"見える"ようにすることです。


私たちは、あまりにも無関心で何も知りません。あなたが平穏に生活する一方で想像を絶する貧困にあえぐ人がどこかよそにいることも、あなたのポジティブなメッセージが見えない誰かを疎外していることも。それはどうしようもないことです。どうしようもないけれど、あなたが望むなら少しでも想像すること、見ようとすることはできる。無関心はあらゆるマイノリテイの敵です。LGBTは誰よりも一般社会とは異なった「くくられた」グループとして理解を済まされることの厄介さをよく知っているはずです。

だから、LGBTPZNはLGBTPZNの (あるいはPZNの) 権利運動にはなり得ない。そのようなものを夢想したり、あるいは、そのようなものに擬態したりしながら、それの周りで歌ったり踊ったりしている。これは熱狂的な死の舞踏である。

LGBTPZNは遊戯的であるべきだが、遊戯ではない – 墓場人夜

論文なし、報道なし、商業出版物なし、建設的な議論もあまり見られない。それはそうです。LGBTPZNは死の舞踏だからです。倫理によって自己を破壊され、それでも自己を捨てることのできない破綻した者は踊るしかないのです。踊ることにあえて意味をつけるなら、それは闇の中でも"見える"ようにするための技術です。

いいですか、繰り返します。もし「やってしまう」ことの問題が「やってしまわないようにしてもらう」ことで全部解決すると大真面目に語っているなら、それはとんでもなく人をバカにした、大雑把で、滑稽なことです。

PもZも(Nも?) *15 自身の性的欲求を満たそうとすれば必然的に他者を損なってしまいます。かつては、そして今現在でさえ自身の同性愛の「異常」性に悩む人も大勢いるはずです。自分が自分であるだけで誰かを傷つけてしまうことや疎外されてしまうこと。どうしようもないのです。自分も他者も、究極的には変えることができない。私のよく知るLGBTPZNのフォロワーたちはその苦しみと葛藤を背負っています。あなたに見えているような「やらせろ」しか言えないような単純化された存在はどこにも存在しません。人は複雑です。可能を夢見ながらも、同時に絶対的に不可能であるものも見えています。LGBTPZNはその限りなくどうしようもない矛盾の中で生まれてきたものでした。

 

*

 

まとめましょう。

全ての人には、性のあり方にかかわらず、
1.好きなものを好きでいる自由がある。ただし、性暴力は他者の自由の侵害である。
2.嫌いなものを嫌いでいる自由がある。ただし、侮辱・蔑視・攻撃は他者の自由の侵害である。

 本人の性のあり方にかかわらず、何を思っても自由。ただし、合意なく他者を巻き込むことはその人の自由の侵害である……LGBTがどうの、PZNがどうのではなく、実はそんなシンプルな話なのではないでしょうか。

その通り。だけど、私たちの性が、自由が、倫理がそんなにシンプルなら、どうして私たちは苦しむのでしょうか。

「やってしまわないための連帯」の可能性は夢物語、あるいはあけすけな権力装置の化身なのでした。「やってしまう」「やってしまわない」の審判には必ず矛盾と時代の限界がつきまとうのでした。
法あるいは原則はとてもシンプルです。だけど、性は、人は、他者は、私は、社会がどんなに進歩しようともどうしようもないくらい複雑です。

複雑すぎる他者と、どうにもならない自分とに向き合うために必要なのは、正しさでも優しさでも寛容でもありません。全てを救うことはできないのだから。

疲れている暇はないのです。星になれない私たちは、踊り続けるしかないのだから。

 


 

私に書くための勇気をくれた Judith Butler, Michel Foucault@Go_8yo, nexa, 墓場人夜, 野間みみか そしてフォロワー諸氏に深く感謝します。

 

 

*1:もしお時間があればぜひ青空文庫で全文を読んでいただきたいです。10分くらいで読めます。

*2:http://hosyusokuhou.jp/archives/48814726.html

*3:このことはLGBTPZNがLGBTと敵対ではなく連帯するべきだという有力な理由のひとつです。

*4:LGBTPZNは一人一派と言いますが、2016年末の時点の私のブログでLGBTPZNが「PZNの権利向上」や「LGBTをおとしめること」をねらったものでないことは明言しています。また、複数のLGBTPZN理論家の個人ブログのどこを読んでもそんな主張は出てこないはずです。

*5:もちろん、nexa氏の言うとおり時代・社会・文化を超越した普遍的正義はありません。しかし、現代の日本における法制度はこのような思想のもとに敷かれていることは確かです。

*6:私にはこの結論への移行がいささか唐突に思えました。結局「自由と侵害の原則」の「侵害」の部分とPZNの交差という一般的な話に浮上するなら、LGBTPZNの悪事の歴史を精査するよりも各国の法事情や道徳観、あるいは当事者のケーススタディを踏まえてPZNが何を侵害しているかについてまとめた文章を発表すればよかったのではないでしょうか。

*7:私は詳しくないのですが、「やってしまわない」ための連帯として日本国内では SCAとは何か? - SCA-JAPAN 無名の性的強迫症者の集まり の活動があるようです。

*8:https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/alcohol/a-05-006.html

*9:念のため、性的な行為の加害性を矮小化する意図はまったくありません。ただ、当事者の人格にとって「正しさ」というのは屈辱をやわらげるために何の役にも立たないということです。

*10:なぜか蔑ろにされがちなことですが、獣姦と屍姦を禁止する法律は日本には存在しないはずです。なぜか蔑ろにされがちなのでここに書いておきます。

*11:http://necrolife.blog.fc2.com/blog-entry-67.html

*12:http://hattatu-matome.ldblog.jp/archives/50846237.html

*13:そういう意味で、LGBTPZNがLGBTの拡張概念だとする理解は誤りであるとも言えます。

*14:LGBTPZN語で「線引きを"ずらした"だけ」と表現される事態です。

*15:何も損なうことのない政治的に正しい成人同士の性行為が存在することになっているのは慣習に過ぎないと私は考えていますが、これについては今のところ語る口を持たないので曖昧にしていることをお許し下さい。

GNU Social の思い出

この記事は 分散SNSフォーラム - connpass 応援記事です


タイトルは若干誇張であってここではGNU SocialインスタンスのひとつであるFreezePeachにアカウントを開設してからの半年間にあったことを私的な観点から記録します。GNU SocialというのはMastodonより古いいわゆる分散SNSの実装のひとつで、Mastodon等の別の分散SNS実装と一定の互換性があり相互通信が可能です。今回取り扱うFreezePeachは、ほぼ唯一日本人コミュニティが存在しているGNU Socialインスタンスです。*1

FreezePeach と #twexit

私がFreezePeachにアカウントを作成したのは日本でMastodonが話題になるよりかなり前になる2017年1月2日で、ことの発端は女性器に擬態している生物 (現@hakabahitoyo) が思いつきで始めた #twexit という脱Twitter運動でした。本人曰くTwitterの代替としてFreezePeachを選んだことに必然的な理由はなかったそうですが、ともかくこれに影響された何人かのTwitterアカウントがFreezePeachにアカウントを開設しました。といっても多くの人にとってTwitterから脱却する強烈な理由があったというよりは、退屈しのぎにアカウントを作ったらだんだんとムーブメントとして盛り上がってきたこと、それに原住民との交流が活発だったことの目新しさなどから興味を惹かれたという感じだったでしょうか。

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https://freezepeach.xyz/

アメリカに存在するインスタンス、FreezePeachはその名 (Free-Speech) のとおり「言論の自由」を大々的に掲げたインスタンスのひとつです。その利用規約はシンプルを極め、児童ポルノ投稿はBAN対象であること、それ以外の言論については自己責任、と念押しされているのみです。

As for rules:

1. Don't post child porn. This is a bannable offense. And we're obligated by law to report you to the appropriate branch of law enforcement.

That's... that's pretty much it. Mind the laws in your own country on what you can get in trouble for discussing, but that responsibility is solely your own.
(FreezePeach ToS より引用)

Twitterにはルールがたくさん定められています。著作権侵害、露骨に性的なコンテンツ、嫌がらせ、非合法な目的での利用……。Twitter社のこのルールの運用が非常に悪名高いことはみなさんもよくご存知だと思われますが、とにかくFreezePeachではできるだけBANの無いサービスを目指す代わりに、ブロックや「sandboxing (いわゆるミュート)」の積極的な利用を推奨し、「嫌なら見るな」というある意味で非常にハッカー精神的なサービス運営方針をとっています。

#twexit 以前のFreezePeachは、元々はGamer Gateという一大論争を発端に、いわゆる Social Justice Warrior (日本のTwitterでいうツイレディやポリコレ棒) から逃れて話ができる場として作られたようです*2。やがて小規模なコミュニティを形成するに至った住民は日常の些細な出来事やニュースや趣味について語るといった至ってTwitterと同じような場としてFreezePeachを利用してきました。アカウント同士の距離感がかなり近いので頻繁にリプライがとび交い、実際Twitterの常識で使っているとクソリプそのものとしか言いようがないユーザー体験を強いられることになるのですが、このあたりの感覚はインスタンスの仕様や規約といったハード面とは別に形成されるもので興味深いです。#twexit 以前に一度日本のTwitter文化圏のユーザーが入植し日本人街を形成されていたことにはいたらしいのですが、その後文化が定着せずに消滅し、Twitterの投稿をFreezePeachにミラーする仕組みを使っている人による自動投稿が延々とタイムラインに流される廃墟と化していたところに女性器に擬態している植物が目をつけたという経緯のようです。

ともあれ #twexit から数日の間、各人思い思いに好きなことを書き込み続け、public timeline (インスタンス内の投稿が全て流れるタイムライン) はマルチバイト文字で圧倒されていきました。

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(1月3日3:02時点でのトレンドの様子。GNU Socialのハッシュタグは日本語が全部アルファベットになる*3のですが、よく見ると全部日本のTwitterの文脈)

そうこうしているうちに案の定というか、女児の画像を投稿したアカウントが通報を受けて凍結されます。この直後サイトトップに常に「子供のエッチな画像投稿禁止」旨の警告文が表示されるようになり体感治安がメチャ悪化しました。

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この削除要因が裸の女児が泥だらけになって遊んでいる姿態(局部の露出なし)の画像や水着で海で遊んでいるただのホームビデオのリンクというTwitterならスルーされる程度の内容だったせいでTwitterより不自由じゃないかと多少物議を醸したのですが、結局あえてルールに抵抗する理由もなくそれ以降はごくマイルドな画像・動画がシェアされる良好な状態が維持されて警告文の表示も無くなりました。そういえばPawooでも無修正3次(某有名ゲイビデオ)が流れたと風の噂に聞きましたがどうなったんでしょうか。

こうして振り返ると一連の騒動がFreezePeachとしては迷惑としか言いようがないものだったことに愕然とさせられるのですが、実際タイムラインを汚すなと言う人も何人かいた一方歓迎する人もいて、全体として排他性を感じることはなかったと思います。あまりに良い人達なので最初は新しい遊び場くらいにしか思っていなかった私もだんだん愛着が沸いてきました。ともかくルールを守る限りでは書く内容についてはあくまで不可侵という認識は全員に共有されているようで文章の内容に関して不快な攻撃を受けることはほとんどありませんでした。だからといって英語で女児による前立腺マッサージについて英語で記述すると「ここではあなたにはその投稿をする自由がある」というリプライが飛んでくるのはかなり嫌な体験でしたが。

MastodonGNU Social

MastodonGNU Social文化の関係についても触れておきます。いま一度念を押しますが、この記事で触れるGNU Social文化とはFreezePeach, Sealion Club, Shitposter Club, GNU/Smug 等の互いに関連しあったGNU Socialインスタンスが構成する一定の文化圏を指し、必ずしも全てのGNU Socialインスタンスに当てはまるかどうかについては私の知るに及ぶところではないことをお断りしておきます (例えばリチャード・ストールマンのいるGNUsocial.noにはあてはまらないと思う)。

さて単刀直入に言うと、FreezePeachはmastodon.social (mastodon開発者の運営するインスタンスです) にインスタンスごとブロックされています。いろいろと経緯*4はあるようなのですが、不謹慎ユダヤネタにマジレスした人が晒されてHentai画像が大量に送りつけられるという事件があり、関連した治安の悪い文化圏のインスタンスがまとめて目をつけられたというどこかで見たような事情のようです。

今更になりますが、FreezePeachやその周辺のインスタンスのユーザーはしばしば自分たちの居場所をゲットーと呼ぶなど悪質な言動を文化にしているところがあります。Mastodonとしてはそのような文化を快く思わず、一方のGNU Social側もMastodonを気に食わないやつだと思っているようです。

The GNUsocial Axis Resolutions (日本語) ではかなりはっきりとMastodonに対する反感が表明されていますが、MastodonTwitterという一企業の支配からの脱却による自由という面を重視している一方で言論に関してはキレイで有意義な場を作ることを指向しています。Mastodon.socialのことは詳しく知らないのですが、capitalismとかfascismとかの単語がけっこう飛び交っている印象があります。

GNU Social側は元々治安が悪いうえにMastodonを目の敵にしていてPawooが可愛いくらいにやりたい放題やっています。shitposter.clubという不謹慎インスタンスMastodon開発者の偽アカウントが存在するのですが、Pawoo鎖国騒動に乗じて暴言を吐いていた当時にはなりすましに気づかず困惑していた日本のユーザーがかなりいた覚えがあります。

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この件ではmastdn.jpのnullkalが既存の推奨ブロックリストに追従する形でshitposter.clubを安易にブロックしようとしたのをGNU Social側の説得により撤回するという一幕もありました*5。shitposter.clubはそもそもユーザー全員のアイコンがEugenに変わったりかなりムチャクチャをやっているのですが、他にもsealion.clubでは"Mastodon"と書くと"the pile of Ruby shit"に置き換わるなどいろいろあるようです。ひどい。

まとめ; 分散SNSのこれからについて

さて、日本のTwitterMastodonが流行った一時の熱も収まり、各地で、Twitterとは少し違う居場所としてコミュニティが形成されているのではないでしょうか。

これは一例です

例に漏れずFreezePeachもそんな具合で、LGBTPZN関連の話題、あるいは分散ネットワークについての技術的な話題、その他の話題についてもぼちぼち話す場所になっています。また、TwitterのURLを引用しても相手に通知が行かないために気兼ねなく特定のツイートに言及できるのは非常に便利でした。私の場合、FreezePeachのアカウントのフォロワーはTwitterのフォロワーの部分集合なのであえて拡散力の低いほうを使う理由はないはずなのですが、前述した特定の話題を扱うときはもちろんのこと鍵垢にするほどでもないツイートを書き込むときにも使えると思っています。おそらくTwitterからはみ出して他の非主流SNSにまたがったユーザー全般がそう感じるのではないかと思うのですが、なんとなく、独特の内輪の雰囲気があります。ただ、雰囲気でクローズドとはいえ実際にはパブリックなので、いつか痛い目を見るかもしれません。特にMastodonが普及してからは連合タイムライン経由で投稿が漏れるのであまり意味がなくなったかも。たまにペドフィリア云々という投稿で知らないマストドンアカウントから通知が来ることがありヒヤッとさせられます。

FreezePeachを使っていてひとつ心残りだったのは、結局以前からのユーザーとの間には壁が存在したことです。初期こそこちらの日本語投稿をGoogle翻訳を駆使してリプライを送ってくるということが頻繁にあったけど、徐々に無くなっていったのは勿体無く思います。まあLGBTPZNという概念や「ラジ」という語尾の輸出という一定の成果はありました。

FreezePeachの大きなテーマだった言論の自由についても書いておきます。理論的には、各自が自身の責任の下で情報を発信するインフラを所有することが無制限な言論の自由を産むはずです。旧来のメディアに対してインターネットはそうした可能性を秘めています。幸いにして言論の自由が保証されている国に住み、一定の意味において確立した自由なソフトウェア流通を享受している私たちは、その限りにおいてどんな情報でも発信できるはずです。しかし拡散力という面では一からの発信は困難を極めるためにSNS等の確立されたインフラに乗る必要がありますし、たとえ自由なソフトウェアによってその問題から解放されたとしてもソフトやハードを自前で整えるほどの技術力が誰にでも備わるということは考えにくく、ましてや定期的なアップデートや悪意のある攻撃への対応になると適応できる人はかなり限られてくるでしょう。

そもそも私達は本来、自由なはずです。ところがTwitterを利用すればTwitterという企業の気紛れに、実生活では家族や学校や会社や自治体や国に左右されてしまいます。これは「権利を得たいなら義務に従え」式の疑似規則ではなく、いわば交渉の領域に存在する問題です。私たちは常に他者を利用し、同時に利用されて生活しています。ただ、何を利用するかどうかは選ぶことができるし、他者を変えることもまた可能な選択肢のひとつです。

インターネットの言論は、それが多数の人間に関わる、つまり政治的な事柄である以上ひとつの完璧な正解といったものはありません。#twexit を機にFreezePeachにアカウントを作った人たちは現在FreezePeach以外の場所を求めていくつかの自前のGNU Socialインスタンスを運営しています。

Pawooへの移行運動のとき、私は少なくとも自由さにおいて上回るはずのFreezePeachが以前からあったことを差し置いてPawooが救世主のように語られる様子を歯がゆく感じながら見ていました。FreezePeachは二次絵でBANしないだけTwitterよりも確実に良いです。無修正でもOKなだけPawooよりもさらに良いです (もちろん猥褻物頒布にはあたるわけですけど、もし確信犯的にそうしたいという意図がある場合に力になる場はたくさんあるし、なんならTorだってあるということはとても意味のあることでしょう)。結局PawooとTwitter二重投稿する文化ができつつあるのはとても良いことでした。TwitterにもPawooにもFreezePeachにもそれぞれ利点と欠点がありますが、その存在を知らなかったりそもそも存在しなければ使うことすらできないでしょう。私たちは選ぶことも変えることもできます。もしあなたが何か不満を持っているなら、それを少しだけマシにする方法は案外手を伸ばせば届くものかもしれません。

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日本マストドン史が今後編まれると思うけど、この記事を機に先史としてGNU Socialをねじ込む風潮を作っていきたい。これを読んでいるマストドン史編纂者は事前にFreezePeach住民に一声かけること。

*1:分散SNSなんだからインスタンスに存在するコミュニティに意味はないという意見はある意味正しいけど、現実的には同じインスタンスであるということにはかなりの意味がある。インスタンス内の投稿をまとめて閲覧できるTLが存在すること、そして自分がどのインスタンスにアカウントを作成するかという決め手になる要因は結局そのインスタンスの文化や既存アカウント群にしかないため

*2: これは正確には sealion.club というインスタンスの話で、FreezePeachはその派生インスタンスらしい

*3:ラテン文字ICU音訳器でむりやりラテン文字に正規化 (transliterator_transliterate) するクソアホ仕様である

*4:https://freezepeach.xyz/notice/2080604

*5:でも分散SNSにおいて悪質インスタンスぐるみでニセアカウントを作られた場合、インスタンスをブロックするか泣き寝入りするか法的手段をとるかの三択しかなさそうなのでEugenがかわいそうに思えてきた

Encouragement of Pedophile Pride

You may be surprised to learn that there has been a remarkable number of pedophile organizations in serveral countries. List of pedophile and pederast advocacy organizations - Wikipedia

I regret this list does not include Japanese one, although Japanese society is so closely related to problems with pedophilia as the other countries in the list. It is commonly said that pedophilia is much more common in Japan since law in Japan was uneager to ban child pornography for a long while. However, the recent pedophile social theories attribute the apparent generosity with pedophilia to lolisocial (lolicon-social, the lolicon version of homosocial, characterized by the patriachal attitude toward female youthfulness, and pedophilophobia) to find out it is a hidden menace to pedophiles.

So I would like to take initiative to promote the P-Pride (Pedophile Pride) movement from Japan, proposing the P-Pride flag.
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The sequence of colors in this flag derives from Ichigo Mashimaro (苺ましまろ), a Japanese manga by Barasi (ばらスィー), who is the most meritorious pedophile in Japan. The serialization of Ichigo Mashimaro began in 2002 and has already published seven volumes so far. Each volume has a unique color in the Ichigo Mashimaro title logo, like volume 1 red, volume 2 azure and so on. I arranged these seven colors in publication order and designed "P-Rainbow". This flag is licensed under CC0 and you are completely free to use this flag for your actions any day now. I sincerely hope 2017 will be a year of P-Pride.

苺ましまろ 1 (電撃コミックス)

苺ましまろ 1 (電撃コミックス)

柚子森さん 1 (ビッグコミックススペシャル)

柚子森さん 1 (ビッグコミックススペシャル)



This article participates in LGBTPZN Advent Calendar 2016 - Adventar. Write, Act and Please Join Us! We are Rainbow Brothers!