大阪声かけ写真展に行ってきた

君のこといつも見つめてて
君のことなにも見ていない

9月の海はクラゲの海 / ムーンライダーズ

もしいま、あなたの手元に国語辞典があるなら、お手数をおかけするが、「不審者」という言葉を引いていただきたい。おそらく、載っていないはず*1

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私が初等教育を受ける年齢になって小学校に通いはじめた、つまり「児童」になったのは2002年の春だった。"フシンシャ"という音の連なりと、それに伴うサングラスにマスク姿のイメージは私にとって、そしてクラスメイト全員にとって小学校生活の日常風景だった。友達をいじるときにも「お前フシンシャやろ」という言葉*2が何の含みもなく発せられ、始業式の日には黄色い防犯ブザーや緑の半透明の防犯笛が配られて、私たちはそれがどんな場所で製造され、どんな指導や決定のもと自分の手に届いてるのかについて想像を巡らせさえしないまま、ランドセルの脇にぶらさげて、専ら下校のときにふざけて引っ張って通学路にかん高い音を響かせていた。

思い出してみると、下校時刻の記憶をいくつも覚えている。二つ隣のアパートの駐車場が通学班の集合場所だった。川を渡った向かいを少し行った先にある大きな古い家の塀にみんなで草や土をこすりつけて絵を描いて本当に楽しかった*3。発表会で同じ鉄琴パート担当になった転校生と2人きりになって階名を暗唱しながら帰った。通学路の家には「まもるくん」ステッカー*4が貼ってあった。地域見守り隊だかなんだかの名前のついた服を着てるおばさんが挨拶をしていた。

声かけ写真の中の子どもを初めて見た。どれも20-30年ほど前の時代の子どもたちらしい。
「見たことある」子どもだと思った。

家庭を持たない成人が生活を送るうえで、ほとんど子どもにかかずらうことなく済んでしまうほど、子どもを社会人が回している「社会」の文字通り外側にいるものとして扱えるほど、2019年の文明は整然と整えられている。そんな状況で、何者でもない者にとって子どもを「見る」ことができる時間と場所は限られている。夕方の公園、公民館、日曜日午前中の河原、休日のショッピングモール、お祭り、その他いろいろ。子どもが遊ぶに相応しいと親や学校が認めている場所、あるいは、親と一緒に居られる場所で、親しい家族や友人と遊ぶ。いないはずの子どもはいるところにはちゃんといて、そして「いるべき場所」にいる子どもは、朝ドラとも、子ども向けファッション誌とも、ジュニアアイドルのビデオとも、漫画やアニメとも、全く違う表情をする。声かけ写真の中の子どもは、その顔をしていた。

子どもとある種の「信頼」関係を持たなければ、声かけ写真は撮ることができない。実際、注意深く鑑賞していれば、同じ人物を被写体としながらも服装や場所の異なる写真があること、すなわち時間の余白の存在に気がつく。その余白を、彼ら――被写体、撮影者――は、どう過ごしていたんだろう。しばしば痴漢や盗撮のアナロジーで語られる「声かけ写真展」の、その名前から受けるような、サッと甘い声をかけてサッと立ち去り、晒し上げる*5ような暴力的なイメージとは遠く離れた世界の出来事を目にした。

もちろんバイアスを承知のうえでそれでも、声かけ写真展の全ての写真について、あたりを通りがかった大人に写真そのものを見せたなら、その中に explicit な、あるいはわいせつなニュアンスを感じさせるような写真は一枚もないはずだと断言できる*6

私は子どもが好きだ。子どもを見るのも好きだし、それと同時に、子どもが平和に暮らしてほしいと心から願っている。私にとって声かけ写真展は、子どもが純粋に好きだという気持ちと、その裏返しの、それに内在する暴力性という私自身の鏡写しのようで、鼻につくようなノスタルジックなテーマ性、現在の自分たちの世界観以外を一切顧みない単純な批判の声のどちらもまともに考えるのが嫌でたまらなかった。半分くらい開かれてほしいと思っていたし、半分くらい開かれてはいけないと思っていた。

だからこそ、声かけ写真の余白に、愕然としてしまった。


*


「かつて存在した声かけ写真という文化」という主催の言葉は何の捏造でもない。子どもの写真が「絵になる」として写真愛好家の間でジャンルになり、一般向けに指南本さえ出版されていた。今でも写真愛好家が何気なく子どもの写真を撮影してトラブルになる話は耳にする*7。今日、フォトジェニックな「子ども」は専らSNSで愛しい我が子との日常を紹介するツールにすっかり収まってしまったのだろう。声かけの時代と現在との間に横たわる何か大きな断絶。社会の何が、なぜ変わってしまったのだろう?

朝日新聞のデータベースから不審者という言葉を検索すると、古い記事では専ら「捜査線上に上がる人物」という意味で使われている*8。80年代までは誘拐の警戒に関する記事がいくつか目につくに留まるものの、90年代からは直前に発生した通り魔や殺傷事件を受けての「子どもを地域で守る動き」という文脈での言及が増えてくる。そして2000年代からは「子どもを不審者から守る取り組み」「地域の不審者情報」といったお馴染みの記事が爆発的に増加していく。

決定的な契機は間違いなく2001年、宅間守による附属池田小事件だ。当時の世論を受けて文科省は02年に「学校への不審者侵入時の危機管理マニュアル」を作成。同年、大阪府では「安全なまちづくり条例」が制定され、03年に東京で同様の条例が制定されるのをきっかけに全国で同様の動きが拡大する。それらの取り組みにはいずれも、地域や学校の子どもへの「まなざし」が子どもを危険から守るという理念が背景にあった。以降、地域と行政が一丸となった「安全な町づくり」――繋がりが失われていく社会と、何を考えているか分からなくなった子どもたちへの潜在的な恐怖が背景にどれだけあったろうか――は子どもの安全対策を中核とした理念のもと全国に急速に広がっていく。あとはもう、現代のお話である。「声かけ条例」は、宮崎勤ではなく宅間守によって作られたものなのだ。「安全な町づくり」の中で子どもの安全対策は子育ての最重要事項の地位を占めるようになっていく。地域の防犯パトロールは高齢者に与えられた、暖かい地域を繋ぎ止める役割を感じさせる格好の生き甲斐となる。

まなざしが、子どもに向けられる。地域あるいは社会全体で最優先に守るべき宝、すなわち「公共物」としてのまなざしである。

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写真は真実を写し取ることはできない。写真は、被写体を切り取ると同時に撮影者のまなざしも切り取る。声かけ写真の中にはそこにしか存在しない大人と子どもの関係があった。子どもが晒されていたのはどんなまなざしだったろうか。

子どもの情報の向こうには等しく子どもの存在がある。30年前のフィルム写真の向こうにも、数行の文字列に圧縮された不審者情報の向こうにも、携帯電話を子供部屋の床に直置きにして撮影されたYouTube動画の向こうにも、ショッピングモールで一瞬すれ違った親子連れの子どもの服装の記憶の向こうにも、情報の幽霊と背中合わせに、ひとりの子どもは確かに存在している。「安全な町づくり」の世界で生きていた当時の私も、声かけ写真の子どもたちもきっと幸せを知っていた。だが2002年にも、30年前にも、その世界の裏側で搾取され傷つけられる子どもは存在したはずだ。また同じく、行政その他の取り組みによって安全を与えられた子どももいるだろう。子どもは単なる性的対象ではないし、同様に公共物でも、親権者の所有物でもない。本当は安全な社会も、邪悪なまなざしも、存在しない。あるのは自分と、自分の目の前にいる人間の人生でしかない。情報の幽霊に魂を吸われてはいけない。

声かけ写真を通して大人と親しくなった子どもは、時が経ち、発達段階を踏むにつれて大人を疎ましく思うようになり、互いに疎遠になっていくという。

エスロリータ、ノータッチ。それはそう。それで?

子供みたいに愛しても
大人みたいに許したい

Everything is nothing

9月の海はクラゲの海 / ムーンライダーズ

*1:日本国語大辞典第二版、新明解国語辞典第六版、広辞苑第六版には収録なし。2018年改訂の広辞苑第七版には収録されている。

*2:北朝鮮、テロリスト等と同様。

*3:次の日先生に呼び出されて消した。

*4:子どもの防犯に協力する家の印。

*5:ところで展という形だとそういう面が出てしまうのは避けられないと思う。社会的な性質を帯びていることが分かっている以上、写真を販売するのは論外として少なくとも入場料は撤廃してカンパ制にするべきだ。

*6:梅佳代の写真のほうが絶対危ない

*7:声かけ写真展に反対する署名活動の主催である大月久司氏は「いくら昭和でも北海道の田舎でも、普通知らない人の写真は撮りません。」とまで言っている。写真のことを何も知らないのか?

*8:「本人からの反応依然なし 防犯ビデオの不審者 グリコ・森永事件」(1984年10月17日 東京/朝刊)など。