自然法被害者の会

セクシャルマイノリティの権利について書きます

LGBTPZNの現在地

LGBTPZNは、かつては、7種類の多様な性――レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリア――のアクロニムでした。現在は、LGBTPZNはアクロニムではなく、多様な性を象徴するシンボルであると考えられています。

http://LGBTPZN.org/

LGBTPZNという概念/運動が、主に日本のTwitterを中心に普及をはじめてからおおよそ2ヶ月がたつ。
非常に短い期間ながら、ペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーアセクシャルパンセクシャルフェミニスト、等々さまざまなバックグラウンドをもつ人々の間を飛び交い、賛同、嫌悪、疑念、議論、誤解を巻き起こしてきた。
とくにこの数日間、LGBTPZNの議論は第二の波とも言うべき大規模な拡大をみせ、ごく小規模なコミュニティで形成されてきた運動が急速に変容しつつある。その中であらためて、LGBTPZNとはなにかという問いが必要とされているように思う。

LGBTにPZNを付加したLGBTPZNという語の本当の意味での起源はあまり定かではなく、日本のウェブ上に登場する以前にも、ポーランド語や英語のウェブサイトにおいて使用されたケースがいくつか確認されている。いずれにおいてもごく断片的な痕跡しか残っていないが、LGBTを茶化したその場限りの冗談として使われている様子で、とりわけポーランドにおいては過激で保守的なクリスチャンによる反LGBTの文脈で、LGBTをおとしめるための単純な罵倒語として用いられていた。

日本におけるLGBTPZNは、インターネットにおいてしばしば喧々たる議論を招く過剰なペドフィリア嫌悪問題圏の中で、ひとまずは形成されていった。それ以前にもごく小数の人間が散発的に使用していた言葉ではあったが、9月下旬に「ロリコンは存在だけで犯罪なのか?」という議論が大きな話題を呼んだこともあり、小児性愛者やポリティカルコレクトネスに関心の高い層の間で一躍「新しい概念」として話題にのぼるようになっていった。
その後、キャッチーな概念であることからTwitterでの拡散戦略は功を奏し、セクシャリティや人権運動に関心の低い層にもしだいに認知されるようになった。現在ではPに留まらずZやN、LGBTの当事者さえもTwitter上で運動に加わっている。

本論は、この2ヶ月間にLGBTPZNをとりまいて発生した言説を分析し、LGBTPZNの現在地を探ることを目的とする。運動以前の基本的な事項、PZNそれ自体は犯罪ではなく尊重されるべきであるということについては、nexa氏の記事が参考になるので、そちらを参照していただきたい。
屍姦生活に必要なモノ ネクロフィリアと性的多様性と人権について

LGBTPZNはどのようにとらえられてきたのか?

LGBTPZNが周知されていく過程で、支持派であれ反対派であれ、その受容形態は面白いほど多様だった。まずは、そのそれぞれを分析することから始めよう。

キリがない

LGBTPZNへの反応の中で当初から多かったのは、LGBTにPZNをつけくわえたことで本質的な問題は消えていない、つけ加えではキリがないという指摘だった。たとえばアセクシャルパンセクシャルをはじめ、LGBTの規範から漏れた存在、無視されてきた性的マイノリティを掬い取るべきだという指摘は、従来のマイノリティ運動の中でも盛んに行われてきた。その知見のもと、あえてLGBTにPZNを加えただけの概念に何の意味があるのかという疑問が生じる。

LGBTでは捉えきれないものがあるというアイディアには、たとえば90年代に形成されたクィア理論があり、LGBTという固定的なジェンダーカテゴリーに留まらずあらゆるセクシャリティを扱うという点で、LGBTPZNを包括するものに思える。異論はあるものの、確かにクィアはPZNをもその射程に入れるものであり、理論・運動としてもLGBTPZNよりずっと歴史があり、精緻だ。
しかし、LGBTPZNが問いかけるものは、クィアによって完全に置き換えられるだろうか。そのとき損われるものは、ペド、ズー、ネクロという、特に反社会的、変態的、異常性癖とされるセクシャリティを、あえてLGBTと結合することの意味である。

LGBTPZN運動が形成されていく過程で頻出した「悪意」という言葉。少なくとも歴史的にLGBTPZNを語るうえで、この言葉を欠かすことはできない。しかしこの「悪意」は決して、害を為すことや、否定的なニュアンスと安易に結びつけられてはならない。クィアの起源が「変態」という語を肯定的に捉えなおすことであったこと、そしてその運動がファッションとして消費され本来の理念が失われていく危機感と常に隣り合わせであったことは、LGBTPZNの「悪意」を読みとくうえで示唆的である。LGBTPZNという七文字の連なりが与える、感触としての「破壊力」。これはLGBTPZNにとって副次的なものとして位置づけられない。むしろ、それを駆動するエネルギーであると同時に、この感触はむきだしになった倫理の感触であり、LGBTPZNでなければ問うことのできない固有の問題の根幹にかかわるものである。

LGBTPZNはクィアに単純に包括される概念でもなければ、対立するものでもない。ただ、その七文字の連なりが問う固有の問題とともにあるのである。LGBTPZNが扱う固有の問題とは何か?このことは、LGBTPZNへの反応を総覧したあと、改めて考察する。

PZNの権利向上

基本的には、LGBTPZNはペドフィリア・ズーフィリア・ネクロフィリアの権利を向上させるための政治運動として理解されることが多い。

地位の獲得を目論むPZN当事者たちによる権利運動とされることも、またPZN当事者からは「良心的な」人間が無責任に考えた大きなお世話として敬遠されることもあった。日頃から児童に対する性犯罪を問題視している活動家からは、犯罪者がLGBTの立場に居座ることでその加害性を隠蔽しようとする活動だと捉えられ、激しい非難を受けることもあった。

LGBTPZNの主意がペドフィリア・ズーフィリア・ネクロフィリアの権利の向上であるというのは、上掲のLGBTPZN.orgでそのような理念が謳われているとおり、事実である。だがここでも、前述の「悪意」がごっそりと抜け落ちている。

LGBTPZNの「悪意」は、そのような「権利向上」運動というカテゴリのいずれをもすり抜ける。LGBTPZNは、PZNはLGBTと同じだから仲間に入れるべきだという単純な思いつきに基づく運動ではない。むしろ、われわれの議論の場を「悪意」によって問いなおすことである。これも、既に言及した「LGBTPZNが扱う固有の問題」に関わってくるので、詳しくは後に検討する。

悪質な釣り

LGBTPZNがしだいに人口に膾炙していったころ、LGBTPZNの主張内容に賛同する人々に対し、LGBTPZNは実体のない運動、悪質な釣りであるから真に受けてはいけないと啓蒙する活動がみられるようになった。
ここには「悪意」について上の二者とは裏返しの誤解があるように思える。
まず、LGBTPZN.org はLGBT団体サイトのパロディだし、LGBTPZNがクィアのようにジェンダースタディーや運動の中から生じてきたものではないことは確かである。
また悪質性についても、既存のLGBTにあえて異様なものをぶつけ、混乱させることは、すでにLGBTの運動に関わる人の立場からすれば茶化されているようにしか思えないだろう。

だがしかし、いま一度足を地に降ろし、周りを見渡してほしい。
LGBTPZNは反社会的なセクシャリティ自体が犯罪であるかという逼迫した問題とともに歩んできた。LGBTPZNは「悪意」に満ちており、少くとも表面上は偽物の運動であるが、しかしだからこそ意味を持ってきた。なにより、現実に存在するマイノリティへの差別に目を向けることを、LGBTPZNは強く迫る。
「悪質な釣り」として、現実に存在する問題とともにこれを一蹴することは、ひどく偏狭な態度に思える。語る内容がどのようであるか以前に、何のために語るのかを見失うべきではないはずだ。

本物の中立性

LGBTは一部の性癖だけを特権階級化する差別的な運動であり、LGBTPZNの方が政治的に中立性の高い適切な概念であるとして、LGBTPZNをLGBTの欺瞞を暴く概念だと捉えるもの。
この論は、「LGBTはひっこんでろ」という主張とともに、某大手ツイッターユーザーによって拡散され、「第二の波」における最も大きな出来事として位置付けられている。*1

「配慮」する対象がLGBTは不十分であると、LGBTPZNは主張する。だが、歴史を紐解けば明らかであるように、LGBTは放置されていた差別構造を明らかにし、差別と戦い、その都度内外から発生するさまざまな問題と向き合い、マイノリティを救ってきた。LGBTPZNはこのことに多大な敬意を払うし、だからこそLGBTPZNを名乗る。一面的な基準で両者を比較して劣っているものをすべて否定すること。現実に存在する問題どころか、LGBTの歴史にすら目を向けようとしないこの態度は、明らかに差別を解消する方向ではなく、差別を生み出す方向に動くものである。それはむしろ、ポーランド人の用法、LGBTをおとしめるためにPZNを同列に扱うことと、何ら変わりはない。
LGBTPZNへの一面的な理解を糾弾するLGBTPZNは、LGBTへの一面的な理解も糾弾する。

いったい、LGBTPZNをどのようにとらえればよいのだろうか?

ここまで総覧してきたLGBTPZNへの理解は、いずれもある意味では正しいが、ある意味では不適切だった。一体何が悪かったのだろうか?

既存のカテゴリのいずれかに放り込むことによってLGBTPZNを規定すること――「まともな」権利運動だったり、無責任な与太だったり、釣りだったり、LGBTへの攻撃だったり――では、LGBTPZNが本当に問うものから目が逸れてしまう。LGBTの四文字にPZNの三文字を結合するということ自体が発する問い、それらの総体こそがLGBTPZNである。
LGBTにペド、ズー、ネクロの3つ――これらはとくに創作において比較的馴染深いモチーフでありながら、現実に存在するその当事者は差別を受け、それどころか実在し、性的な悩みを抱えているということすらも認識されていない傾向にある――を結合するとき、何が起きているのか?

LGBTPZNの「悪意」は、撹乱する悪意である。LGBTPZNは正常/異常を規定してきた倫理、常識、社会通念を、露悪的に撹乱する。ここにおいて、ペドフィリア・ズーフィリア・ネクロフィリアの「反社会」性、「異常」性は、社会が構築した人権意識とセクシュアリティの規範を内部から破壊するラディカルな問いへと変貌する。

ほかでもないLGBTPZNの七文字が問題になることの必然性、LGBTPZNの固有性がここにある。

性的な表現に寛容な場であるはずのネット文化やオタク文化においてさえ、その主流において「ガチ」の小児性愛、動物性愛、屍体性愛は、「変態」「異常」のレッテルのもと、無邪気な差別的扱いを受けていた。むしろ、既存のLGBTでさえも十分に理解されているとはとてもいいがたいことは、誰の目にも明らかであるはずだ。LGBTPZNはそのような議論の「場」そのものを、撹乱し、見直しを迫るものである。

LGBTPZNの運動は、悪意と不可分である。だが悪意を否定的ニュアンスだけで考える必要はないだろう。われわれの日常の感覚、インターネットを使用する感覚では、悪意をもって議論に加わること、場を乱すこと、炎上を起こすことはやってはならないことだった。しかしこの感覚は、「正常な」倫理、常識、社会通念の巧妙な策略でもある。われわれの日常の倫理を飛び超えるとき、硬直した規範を問い直すとき、正常さは、それを「悪意」と名付け、そんなことをすれば炎上するぞと脅しをかけるのである。
今日のインターネットにおいて、異常なもの、規範を侵すものは、たいていの場合、何らかの炎上の状態を避けられないものである。だからこそわれわれにやれることは、いかにうまく悪意を浸透させるかということ、いかにうまく場を撹乱するかということである。

われわれは、LGBTPZNパレードの夢を見る。
小児性愛者・動物性愛者・屍体性愛者、その他諸々のセクシャリティをもった人々が、七色の旗 (否、もっとたくさんの色かもしれない) のもと、連帯し、思い思いのスタイルで、それぞれのセクシュアリティに誇りを持って街を占拠する光景を。

そのとき、LGBTPZNの悪意は、とうにその意味を失っているのだ。


この記事は LGBTPZN Advent Calendar 2016 - Adventar の三日目です。

あなたも運動に加わってみませんか。LGBTPZN運動はまだまだ生まれたばかりで、常に消散のおそれと隣り合わせです。あなたがLGBTPZNについて考えること、語ることこそ、LGBTPZNの力になります。LGBTBTPZNについて、家族や友人と議論をしてみる、ブログに記事を書く、またはTwitterアカウントを作成して、#LGBTPZNおよび #LGBTPZNさんと繋がりたいでのディスカッションに参加してください。

*1:この「事件」については 砂鉄はどのようなアカウントか – 墓場一夜 が参考になる。