LGBTPZNは何を破壊しているのか、あるいは「やってしまわないための連帯」の(不)可能性
「よだかは、実にみにくい鳥です。」から始まるこの童話のあらすじを少し紹介させて下さい。*1
顔は味噌をつけたようなまだら、くちばしは平たく耳までさけて足はよぼよぼの「実にみにくい鳥」であるよだかは、鳥の仲間の面汚しと呼ばれて生きています。なかでも一層よだかを目の敵にしている鳥がいます。鷹です。よだかのような醜い鳥が同じ「鷹」の名前を持つことが我慢ならない鷹は、よだかの顔を見るたびに名前をあらためろと因縁をつけます。
「おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです。」
「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」
自分がいやになったよだかは空へ飛び出します。花の蜜を食べる蜂すずめや魚とりの名人のカワセミとは違って、夜だかは羽虫を食べて食らしています。それも、耳まで裂けた口を大きく開いて空を横切りながら、何匹も何匹も食べなければいけません。
雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)
よだかは力尽きるまで空高く飛び上がったあと、さかさになっているのか、上を向いているのかもわからなくなりながら、命を落とします。
気がつくとよだかは星になっていました。ひとつの星になって、今でも青く燃えているそうです。
*
LGBTPZNという言葉がインターネットに登場してから長い時間が経ちました。
私たちの見た夢が少しでも実現に近づいたかどうか、私には分かりません。
牧村朝子氏がLGBTPZNについて論を発表したと聞いて驚きました。LGBTPZN運動において私が最も頭を悩ませていた(かつ、予想外だった)のは、ネット上でLGBTPZNが拡散する中で読者が思い思いになす解釈は、そもそもLGBT運動すら前提としていないものが多数だったことです。LGBTPZNがすべての性を尊重することの正当性を掲げているのは何よりもLGBTが旧世代の規範を少しずつ打ち崩してきたその論理によってであり、間違っても同じ変態だからだとかが理由ではないのですが、その元となったLGBTの歴史や議論を踏まえられていないがためにLGBTPZN自体を誤解してしまっているという事態は往々にして*2起こっていました*3。牧村朝子氏がLGBTに関する言論・執筆活動を活発に行っていることはよく知っていたので、その点で安心すると同時に、LGBTを切実に考えたその人にとってLGBTPZNがどのように映るのかについて期待に胸を膨らませました。
ひととおり拝読したところ、気になる点*4はあったものの、性的指向と性的嗜好のあいだに人工的に設けられたヒエラルキーへの疑問という点では評価されていることに手応えを感じました。というのも、性的指向と性的嗜好でのLGBTとPZNの分断というのはある程度LGBTの文脈を踏まえた人がLGBTPZNをとるにたらないものと見なすための常套句だったからです。この観点については非常に貴重な意見をいただけたと思います。
ただし結論部にあたる"全ての人が「やってしまわないための連帯」"という言葉が、どうしても気になりました。
私の結論を先に述べます。「やってしまわないための連帯」は可能である。だが、可能ではない。
*
さて、牧村氏の記事の中で「やってしまわないための連帯」が登場する経緯を追いましょう。(私のこの記事での議論は牧村氏の記事にその多くを負っているので、以下は一度牧村氏の記事に目を通してからご覧いただけると幸いです。)
全ての人には、性のあり方にかかわらず、
1.好きなものを好きでいる自由がある。ただし、性暴力は他者の自由の侵害である。
2.嫌いなものを嫌いでいる自由がある。ただし、侮辱・蔑視・攻撃は他者の自由の侵害である。
牧村氏の記事で三度にわたって繰り返されるこの一対の主張をここでは「自由と侵害の原則」と呼びましょう。LGBTPZN運動の発祥にかかわってはいないながら当事者としての切実さに満ちた先駆的な文章を発表し初期のLGBTPZN理論家たちを鼓舞した nexa 氏の言葉を借りれば、「各個人の信条が異なる以上、『自分の気に入らないこと』と、法的あるいは思潮としての不正義を先験的に同一視することは不可能」であること、「人間の想像力の中に留まるときは、あらゆる性的幻想は等しく尊い」こと。これらのことは人類の長い思想史の中で得られた尊ぶべき結論のひとつであることは確かです*5。他者に対する身勝手な暴力はもちろん法のもとで禁じられています。
さて、この原理を繰り返しつつ、テーマであるLGBTPZNの歴史を掘り返すのが牧村氏の記事の前半部でした。そしてそこから性暴力加害者の自助団体の紹介を経由して結論されるのが「やってしまわないための連帯」の可能性です。*6
牧村氏の記事ではなぜか具体名がひとつも挙げられていないのですが、確かに小児性愛者をどのように扱うかという問題について自己コントロールはいまホットな分野です。「道徳的な小児性愛者」運動をかかげるTodd Nickersonは積極的にメディア露出しているし、小児性愛の「治療」に取り組むドイツのセラピープログラムは話題を呼びました。
わたしは(たぶん)ペドファイル(と呼ばれるべき人)ですが、多くのペドファイルたちと同じように、多くの子どもが身勝手な性被害によって苦しめられていること、その傷の重さ、そして大人たちがあらゆる手を尽くしてそれを守ろうとしていることを知っています。これだけは明確に言います。私は、「やってしまわない」社会を望みます。
さて、私のやるべきことは、「やってしまわないための連帯」を作ることです。やってしまわないように、みんなで頑張りましょう。。…本当に?
自助団体というのはすぐれた仕組みです。性暴力だけでなく、アルコール、薬物、ギャンブル、各種の依存症、精神障害、がん患者。これらの自助団体が世界各地で一定の成果を挙げていることは疑うべくもありません。*7
なかでも「やってしまわない」性の強い依存症の自助団体を例にとって考えてみましょう。これらが現在依存症治療の友好な手段のひとつとしてみなされているのは、あくまでもセラピーのやり方のひとつとしてであり、依存症脱却のための最良の方法とみなされているというのは聞いたことがありません *8。否、それどころか、それは不可能です。なぜなら、"自助"が完全に機能するならば、それはもはや自助ではなくなるからです。私たちは「やりたくないのにやってしまう」例をいくらでも知っているはずです。薬物、殺人、自傷、どんなに抑止力を持ち出しても「やってしまう」人が存在するのはなぜだか考えたことがありますか。力で抑えつけてすべてを済ませるには人の意志はあまりにも厄介すぎるからです。
残念ながら特殊な境遇に立たされた君たちが正常な私たちの連帯をそのまま真似るのは無理だから、君らの連帯は自分たちを縛る連帯になっちゃうけど仕方ないね、と。こんなバカな話はないです。それは連帯とは名ばかりの都合の良い押し付けです。そんな選択肢は拒否します。特殊な境遇を引き当ててしまって残念だったね、で済むのは他人事だからでしょう。LGBTの歴史の中で、マジョリティの側がコンバージョンセラピーの名のもとに行っていた「治療」がどんなに屈辱的なものだったかをあなたは知っているはずです。PZNは、たまたまそれが社会的に正しくないというだけで、自身のアイデンティティを差し出さなくてはならない*9。
もしあなたがすべてのアルコール依存症患者が自助団体によって救われると本当に思うなら、人間の意志と尊厳とを軽く見すぎです。やってほしくない。やりたくない。やってしまわないための連帯をしよう。おしまい。こうはなりません。なるはずがないのです。それはまぎれもなく他者に対する想像の放棄です。
「やってしまわないための連帯」が無意味だとは言いません。むしろ多くのそれを必要としている人の葛藤を癒すでしょう。自助団体は監獄ではありません。ただ、当事者たちの問題は当事者の自助に任せてしまえばいいのだという想像力は、監獄を産みます。
もう一つ大事なことを言わせてください。そもそも、「やってしまう」ということを誰が決めているのか、ということについてです。
ここで安易に極端な相対主義を持ち出すつもりはありません。多くの"穏健な"人々と同様、私はこの時代のこの社会が決めた規則に従うことの価値を知っています。しかし歴史の経緯として、同性愛や性の境界侵犯がかつては秩序や風紀の美名のもとに「やってはいけない」ことになっていたことは事実です。ひどい話だと思います。そして、それが「やっていい」事になったのは規範よりも個人に価値が置かれるようになったこと、何よりも幾多の運動家たちが訴えた「正当性」が社会を少しずつ変えてきたことのおかげであるのもまた事実です。
もう一度言います。私は、「やってしまわない」社会を望みます。そして、現代という時代とこの社会が持つ「自由と侵害の原則」を尊重しています。法律*10を理解しています。それらのことを確信しています。だけど、児童と成人との間の恋愛は絶対的に不平等なのでしょうか?殺したり食べたり好き勝手にしている動物を、なぜ性的な目的で扱うことがタブーなのでしょうか?死体を犯したとき誰の何が損なわれるんですか?近親相姦はなぜ忌避されなければならないんですか?あるいは児童と成人のプラトニックな恋愛を社会は許していいのでしょうか?すべて人間は何度目かの誕生日を過ぎた途端に「同意」の能力が備わるんですか?
誰か答えてください。
*
LGBTPZNには言葉としてのLGBTPZNと、運動としてのLGBTPZNがあると、私は思います。
私にとってLGBTPZNが重要であるのはほかでもない運動としてのLGBTPZN、炎上・悪意・諧謔・夢想・破滅のなかでうねる運動としてのLGBTPZNであり、言葉としてのLGBTPZNはその殻、オモチャに過ぎません。
言葉としてのLGBTPZNは、白昼の中にあらわに晒された表面としてのLGBTPZNです。自由と平等と博愛を謳っています。牧村氏の言うように、あるいはnexa氏の言うように。
言葉としてのLGBTPZNは、たしかに「全ての性的ありようは虹のスペクトラムのように切れ目なく繋がっているものであり、我々は性的ありようによらずお互いを平等な一人の人間として尊重しなければ」*11ならないと、LGBTとPZNの壁、正常と異常の壁を取り払うものでした。とはいえ、これは正直言って行為と内心の区別さえついていればLGBTからのごく自然な結論として受けいれられる程度の破壊に過ぎません。
匿名のVIPPERがLGBTPZNを「闇の深い概念wwwwwwwww」*12と囃し立てたことには学ぶべきものがあります。運動としてのLGBTPZNの本質は闇の中にあります。そしてその仕事はもっと見えづらい部分で行われる、もっと根本的な破壊です。
LGBTPZNは、「LGBT」から「はみ出たものを見る」ための手掛かりなのでした。ここで「はみ出たものを見る」という言葉には二つの異なったレベルの意味を持つのです。ひとつめは、先に述べたように、性的指向という正しさから除外されたセクシャリティを包摂すること。そしてもうひとつは、どんなに「正しさ」をつきつめても絶対に正しくなることができないものへのまなざしを投げかけ続けることです。*13
法と倫理によって徹底的に自分自身を破壊された者が、なおも何らかの倫理や価値観に対して誠実であることは可能だろうか?
人は罪も後ろ暗さも持ち合わせています。正しさの光からはみ出した闇、そこから完全に逃れられる人間は本当は誰もいないはずです。正しさと正しくなさの境界をはっきりさせるだけがすべてではない。LGBTPZNは正常と異常とのあいだに設けられたある一つの区切りを破壊するだけではないのです*14。正常と異常を区別することで安心し何も見えなくなってしまう私たちのどうしようもない性向。その枠組みそのものを破壊するための方法です。
LGBTPZNの運動は、悪意と不可分である。だが悪意を否定的ニュアンスだけで考える必要はないだろう。われわれの日常の感覚、インターネットを使用する感覚では、悪意をもって議論に加わること、場を乱すこと、炎上を起こすことはやってはならないことだった。しかしこの感覚は、「正常な」倫理、常識、社会通念の巧妙な策略でもある。われわれの日常の倫理を飛び超えるとき、硬直した規範を問い直すとき、正常さは、それを「悪意」と名付け、そんなことをすれば炎上するぞと脅しをかけるのである。
"倫理ハック"という概念があります。
「世の中は矛盾の塊」という俗な言葉であらわされるとおり、私たちは私たちの規範である倫理が本当は曖昧で矛盾していることを肌で知っています。矛盾やパラドックスは存在しているのに"見えていない"からこそ問題になります。そして、それを"見える"ようにするための有効な手段は、それをやってみせることです。やってみせたことは、それを理解することができる者には強力なメッセージ、あるいは問いになります。運動としてのLGBTPZNがねらうのは、まさにそれをきっかけに"見える"ようにすることです。
私たちは、あまりにも無関心で何も知りません。あなたが平穏に生活する一方で想像を絶する貧困にあえぐ人がどこかよそにいることも、あなたのポジティブなメッセージが見えない誰かを疎外していることも。それはどうしようもないことです。どうしようもないけれど、あなたが望むなら少しでも想像すること、見ようとすることはできる。無関心はあらゆるマイノリテイの敵です。LGBTは誰よりも一般社会とは異なった「くくられた」グループとして理解を済まされることの厄介さをよく知っているはずです。
だから、LGBTPZNはLGBTPZNの (あるいはPZNの) 権利運動にはなり得ない。そのようなものを夢想したり、あるいは、そのようなものに擬態したりしながら、それの周りで歌ったり踊ったりしている。これは熱狂的な死の舞踏である。
論文なし、報道なし、商業出版物なし、建設的な議論もあまり見られない。それはそうです。LGBTPZNは死の舞踏だからです。倫理によって自己を破壊され、それでも自己を捨てることのできない破綻した者は踊るしかないのです。踊ることにあえて意味をつけるなら、それは闇の中でも"見える"ようにするための技術です。
いいですか、繰り返します。もし「やってしまう」ことの問題が「やってしまわないようにしてもらう」ことで全部解決すると大真面目に語っているなら、それはとんでもなく人をバカにした、大雑把で、滑稽なことです。
PもZも(Nも?) *15 自身の性的欲求を満たそうとすれば必然的に他者を損なってしまいます。かつては、そして今現在でさえ自身の同性愛の「異常」性に悩む人も大勢いるはずです。自分が自分であるだけで誰かを傷つけてしまうことや疎外されてしまうこと。どうしようもないのです。自分も他者も、究極的には変えることができない。私のよく知るLGBTPZNのフォロワーたちはその苦しみと葛藤を背負っています。あなたに見えているような「やらせろ」しか言えないような単純化された存在はどこにも存在しません。人は複雑です。可能を夢見ながらも、同時に絶対的に不可能であるものも見えています。LGBTPZNはその限りなくどうしようもない矛盾の中で生まれてきたものでした。
*
まとめましょう。
全ての人には、性のあり方にかかわらず、
1.好きなものを好きでいる自由がある。ただし、性暴力は他者の自由の侵害である。
2.嫌いなものを嫌いでいる自由がある。ただし、侮辱・蔑視・攻撃は他者の自由の侵害である。本人の性のあり方にかかわらず、何を思っても自由。ただし、合意なく他者を巻き込むことはその人の自由の侵害である……LGBTがどうの、PZNがどうのではなく、実はそんなシンプルな話なのではないでしょうか。
その通り。だけど、私たちの性が、自由が、倫理がそんなにシンプルなら、どうして私たちは苦しむのでしょうか。
「やってしまわないための連帯」の可能性は夢物語、あるいはあけすけな権力装置の化身なのでした。「やってしまう」「やってしまわない」の審判には必ず矛盾と時代の限界がつきまとうのでした。
法あるいは原則はとてもシンプルです。だけど、性は、人は、他者は、私は、社会がどんなに進歩しようともどうしようもないくらい複雑です。
複雑すぎる他者と、どうにもならない自分とに向き合うために必要なのは、正しさでも優しさでも寛容でもありません。全てを救うことはできないのだから。
疲れている暇はないのです。星になれない私たちは、踊り続けるしかないのだから。
私に書くための勇気をくれた Judith Butler, Michel Foucault, @Go_8yo, nexa, 墓場人夜, 野間みみか そしてフォロワー諸氏に深く感謝します。
*1:もしお時間があればぜひ青空文庫で全文を読んでいただきたいです。10分くらいで読めます。
*2:http://hosyusokuhou.jp/archives/48814726.html
*3:このことはLGBTPZNがLGBTと敵対ではなく連帯するべきだという有力な理由のひとつです。
*4:LGBTPZNは一人一派と言いますが、2016年末の時点の私のブログでLGBTPZNが「PZNの権利向上」や「LGBTをおとしめること」をねらったものでないことは明言しています。また、複数のLGBTPZN理論家の個人ブログのどこを読んでもそんな主張は出てこないはずです。
*5:もちろん、nexa氏の言うとおり時代・社会・文化を超越した普遍的正義はありません。しかし、現代の日本における法制度はこのような思想のもとに敷かれていることは確かです。
*6:私にはこの結論への移行がいささか唐突に思えました。結局「自由と侵害の原則」の「侵害」の部分とPZNの交差という一般的な話に浮上するなら、LGBTPZNの悪事の歴史を精査するよりも各国の法事情や道徳観、あるいは当事者のケーススタディを踏まえてPZNが何を侵害しているかについてまとめた文章を発表すればよかったのではないでしょうか。
*7:私は詳しくないのですが、「やってしまわない」ための連帯として日本国内では SCAとは何か? - SCA-JAPAN 無名の性的強迫症者の集まり の活動があるようです。
*8:https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/alcohol/a-05-006.html
*9:念のため、性的な行為の加害性を矮小化する意図はまったくありません。ただ、当事者の人格にとって「正しさ」というのは屈辱をやわらげるために何の役にも立たないということです。
*10:なぜか蔑ろにされがちなことですが、獣姦と屍姦を禁止する法律は日本には存在しないはずです。なぜか蔑ろにされがちなのでここに書いておきます。
*11:http://necrolife.blog.fc2.com/blog-entry-67.html
*12:http://hattatu-matome.ldblog.jp/archives/50846237.html
*13:そういう意味で、LGBTPZNがLGBTの拡張概念だとする理解は誤りであるとも言えます。
*14:LGBTPZN語で「線引きを"ずらした"だけ」と表現される事態です。
*15:何も損なうことのない政治的に正しい成人同士の性行為が存在することになっているのは慣習に過ぎないと私は考えていますが、これについては今のところ語る口を持たないので曖昧にしていることをお許し下さい。